淳和天皇 火葬塚 (京都府向日市)  
cremation mound of Empe Junna
淳和天皇 火葬塚  淳和天皇 火葬塚 
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「淳和天皇御火葬所」の石標





 向日市物集女町(もずめちょう)に、平安時代の第53代・淳和天皇火葬塚(じゅんな-てんのう-かそうづか)がある。
◆歴史年表
 平安時代
、840年、5月8日、淳和天皇は淳和院で亡くなる。5月13日、遺詔により、乙訓郡物集村(おとくにぐん もずめむら)で火葬された。薄葬により大原野の西山の嶺(にしやまのみね)に散骨される。
 江戸時代、1699年、諸陵探索では、物集村の御廟塚(ごびょうづか)を陵所にした。
 幕末、修陵に際して、現在地は火葬塚に治定された。
◆淳和天皇 平安時代の第53代・淳和天皇(じゅんな-てんのう、786-840)。大伴(おおとも)、西院帝、日本根子天高譲弥遠天皇(やまとねこあめたかゆずるいやとおのすめらみこと)、後太上天皇とも称された。第50代・桓武天皇の第3皇子、母は藤原百川の娘・松子(贈皇太后旅子[たびこ] )。810年、平城太上天皇の変(薬子の変)により、兄・平城上皇(第51代)は失脚し、その皇子・高岳(たかおか)親王(真如)は廃太子された。第52代・嵯峨天皇の信頼篤く、皇太弟になる。823年、嵯峨天皇の譲位により即位した。冷然院(冷泉院)に住む嵯峨上皇は影響力を残し、皇太子に上皇の皇子・正良親王(後の第54代・仁明天皇)が立つ。大伴氏は、天皇への配慮から「伴氏」に改めた。824年、左右検非違使庁を設置し、制度を強化した。826年、上総、常陸、上野を親王任国に定める。833年、皇太弟時代の離宮南池院(西院とも)を整備した淳和院に移り、第54代・仁明天皇に譲位した。淳和上皇の皇子・恒貞(つねよ)親王が皇太子になる。
 治水事業、律令制再建、令外官の勘解由使(かげゆし)の復活、検非違使制度の強化を行う。勅旨田、親王任国を置き皇室財政を強化した。漢詩に長じた。詩文集『経国集』(827)、滋野貞主による百科事典『秘府略』(831)、清原夏野らの令(りょう)の公的注釈書『令義解(りょうのぎげ)』(833)の編纂などに努めた。
 温厚な性格だったという。当初、上皇の称号、待遇を辞退する。上皇が二人のため、嵯峨上皇を「先(前)太上天皇」、淳和上皇は「後太上天皇」と称した。遺言により山陵は築かれず、大原野山中に天皇初の散骨が行われた。御陵は大原野西嶺上陵(西京区)になる。火葬塚(向日市)がある。
 なお、842年、嵯峨上皇没後、皇子・恒貞親王は廃位になった。(承和の変)。
◆火葬塚 火葬塚の塚域は方形で、土盛があり南東面している。
 平安時代、840年5月8日、淳和天皇は淳和院で亡くなる。5月13日、遺詔により、乙訓郡物集村(おとくにぐん もずめむら)で火葬された。薄葬により大原野の西山の嶺(にしやまのみね)に散骨される。
 江戸時代、1699年の諸陵探索では、物集村の御廟塚(ごびょうづか)を陵所にした。幕末、修陵に際して、現在地が火葬塚に治定される。
 火葬塚は、かつての火葬場所になる。古代-中世には、火葬塚も陵墓に準じるものと考えられていた。最も格式の高い葬法であり、公式には天皇と近親者に限られた。火葬後に遺骨は別の墳墓に納められた。火葬地の施設を取り除いた後に土を盛り、石卒都婆を立てた。釘貫(くぎぬき、木戸)を建て四面に溝を掘った。(『吉事略儀』) 


51 平城天皇(在位:806-809) →52 嵯峨天皇 (在位:809-823) →53 淳和天皇 (在位:823-833) →54 仁明天皇 (在位:833-850) →55 文徳天皇 (在位:850-858)


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『歴代天皇125代総覧』『京都大事典』『図説天皇陵』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 淳和天皇 火葬塚 〒617-0001 京都府向日市物集女町出口
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