朱雀院跡 (京都市中京区)
The ruins of the residence of Suzakuin
朱雀院跡  朱雀院跡
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「朱雀院跡」の石標、日本写真印刷株式会社の敷地内南西隅に立てられている。


朱雀院は紫の色塗り部分になる。下の灰色の帯が四条通、上に三条通。現在の石標の位置は右下四条通沿いの赤い点になる。説明板より。


左京四条一坊一町より出土した「灰日記」と記された題箋(巻物軸)先 説明板より。


【参照】平安時代の朱雀院復元図、京都アスニー
 四条通七本松東入北側に「朱雀院跡(すざくいんあと)」の石標が立つ。朱雀院とは平安時代初期の上皇御所である後院(ごいん)の一つだった。平安京右京にあり広大な敷地を有していた。
◆歴史年表 平安時代、第52代・嵯峨天皇(786-842)は、譲位後の離宮の一つ、御所として朱雀院を造営したという。皇后・橘嘉智子(檀林皇后、786-850)も御所として使う。その後、皇太后の後院に充てられ、後に天皇の後院としても利用される。
 836年、第54代・仁明天皇が京内の空閑地230町を拡充し、太皇太皇(生母・橘嘉智子)の朱雀院に寄せる。文献上の初見になる。(『続日本後紀』)
 896年、第59代・宇多天皇(867-931)が譲位を控え、朱雀院を新造する。退位後に後院として本格的に利用した。宇多天皇は度々行幸している。敷地は拡張され倍増し8町(南北4町、東西2町)になる。
 898年、宇多天皇は後院として移り、天皇女御・温子(872-907)も移った。(『日本紀略』)
 916年、第60代・醍醐天皇の行幸があり、宇多法皇の五十賀が盛大に行われた。
 945年、朱雀天皇が朱雀院を拡張する。醍醐天皇(885-930)、第61代・朱雀天皇(923-952)の後院になる。
 950年、第62代・村上天皇の時、島町の雑舎は焼失している。(『園太記』)
 963年、村上天皇により再建され、離宮として利用される。後、再び荒廃した。以後、恒常的な使用はされなかった。
 970年、冷泉院の火災により、冷泉上皇(第63代)は、朱雀院に一時移る。
 976年、内裏火災により、藤原兼通が朱雀院を利用する。
 1016年、朱雀院を利用する。
 1028年、朱雀院を利用する。
 平安時代末期まで、朱雀院は存在したとみられる。
 鎌倉時代、1205年、旧朱雀院の地は、すでに遊猟地と記されている。(『明月記』)
 現代、1973年、南東の四町の発掘調査が行われる。平安時代前期の堀立柱建物が発見される。
 1997年、一町の発掘調査が行われる。堀立柱建物、門、地鎮遺構などが見つかった。
 2012年、七町の試掘調査が行われた。東西溝が見つかる。
 2013年、七町の発掘調査が行われる。廂付東西建物遺構が見つかる。
◆嵯峨天皇 奈良時代-平安時代初期の第52代・嵯峨天皇(さが てんのう、786-842)。第50代・桓武天皇の第2皇子、母は皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)。809年、同母兄の第51代・平城天皇の譲位により即位した。810年、蔵人所を設置。平城太上天皇の変(薬子の変)では、平城上皇、藤原仲成、寵妃・藤原薬子による復位の企てを坂上田村麻呂により鎮圧した。戦勝を祈願して賀茂斎王(斎院,初代は娘・有智子内親王)を置き、譲位後の上皇御所として冷泉院と朱雀院を設けた。823年、第53代・淳和天皇に譲位した。約30年にわたり天皇・上皇の権威による政治安定があり、宮中の「弘仁文化」が開花した。
 漢詩文を好み、儀式・服装・宮城諸門の名も唐風に改めた。書は三筆のひとり(空海、橘逸勢)に数えられた。嘉智子と共に冷泉院、嵯峨院(後の大覚寺)で過ごし嵯峨院で没した。
◆朱雀天皇 平安時代中期の第61代・朱雀天皇(すざく てんのう、923-952)。 第60代・醍醐(だいご)天皇の第11皇子。母は藤原穏子(おんし)。925年、3歳で皇太子、930年、父の譲位により8歳で即位した。実際には、母の兄・藤原忠平が摂政、後に関白として実権を掌握した。自然災害、海賊も多発し、承平・天慶年間(931-947)、平将門、藤原純友が乱を起こし、武士台頭の契機になる。946年、母の言に従い弟の第62代・村上天皇に譲位した。晩年は出家、仁和寺に入り、仏陀寿と称した。諡号は、譲位後に母と移った後院の朱雀院に因み朱雀院という。墓所は醍醐陵にある。
◆朱雀院 朱雀院(すざくいん)は、平安京内の邸宅としては数少ない右京四条一坊一町-八町に置かれた。後院(ごいん)の一つであり、天皇が在位中に、譲位後の御所として予め定めた御殿を意味した。当初は嵯峨天皇が譲位後の御所として造営した。実際には、皇后・橘嘉智子(檀林皇后)に属する。その後、皇太后の後院に使用され、天皇の後院としても利用される。冷泉院(れいぜいいん、旧冷然院)とともに、朱雀院は「塁代の後院」と称された。(「西宮記」)。
 敷地は縦に細い長方形をしていた。三条大橋の南、朱雀大路(千本通)の西、四条大路の北、皇嘉門小路(七本松通)の東に及び、南北方4町(530m)、東西方2町(290m)を占めていた。8町規模になる。現在の中京区壬生花井町、天池町の全域、朱雀町、御所ノ内町の西側の一部を含む大邸宅だった。
 推定復元によれば、朱雀院内には、西に西門、東に馬場末門が開いていた。敷地のほぼ中央に南池が広がり、中島が2つ造られていた。池の北に天皇の住む寝殿造の寝殿(本殿)、東対、東二対、西対、宣陽殿、北対の建物群、その北東に皇后の柏梁殿(はくりょうでん)、西対、侍従殿の建物群が建てられた。
 南池は、北東方向の東池に繋がり、流水は北東隅より南へ導かれていた。東に馬場、馬場殿が建ち、池と馬場の間に島町(嶋町、しままち)という釣殿様の建物があった。南には南山という小丘があった。
 丘の西、敷地の南西隅には、石神(いわがみ)明神、隼(はやぶさ)社が祀られた。(『貞信公記』『拾芥抄』)。社は苑池の魚を狙う鳥を追い払うためだったともいう。
 なお、現在地の朱雀院跡の北にある福田寺(中京区天池町)の境内には、朱雀院の苑池遺構といわれる「尼ヶ池」がわずかに残されている。(『山城名勝志』)。異説もある。隼神社は現在、梛神神社(中京区壬生)に遷されている。
 1973年の発掘調査により、「礎板(そばん、柱底を支える板)」を持つ堀立柱建物群が発見された。東西7間の母屋、北南に庇があったとみられる。礎板は再利用されており、長岡京の建物との関連も指摘されている。 
◆源氏物語 『源氏物語』では、朱雀院は桐壺帝の父・一院、子・朱雀院(弘徽殿大后の皇子)の御所に設定されている。
 第54帖第7帖「紅葉賀(もみじのが)」では、桐壺帝、冷泉帝の当院への行幸が描写される。一院の50歳の祝宴で「紅葉賀」が催された。これは、916年の第60代・醍醐天皇の朱雀院への行幸、法皇の「五十賀(ごじゅうのが)」が題材にされているともいう。異説もある。
 
 
*参考文献 京都市の説明板、『京都歴史案内』『京都市の地名』『京都史跡事典』『京都市文化財ブックス28集 平安京』


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map 朱雀院跡 〒604-8862 京都市中京区壬生花井町,四条通七本松東入北側 
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