福田寺・尼ヶ池みがわり地蔵 (京都市中京区)
Fukuden-ji Temple
福田寺 福田寺 
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尼ヶ池みがわり地蔵


尼ヶ池みがわり地蔵



首のない尼ヶ池みがわり地蔵
 壬生天池町(みぶ あまがいけ)の細い路地北に福田寺(ふくでんじ)はある。平安時代、この地には朱雀院が営まれていたという。門脇に「尼ヶ池みがわり地蔵」が安置されている。
 禅宗。 
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
◆尼ヶ池みがわり地蔵 山門脇に「尼ヶ池みがわり地蔵」が祀られている。祠には首のない2体の地蔵尊が安置されている。伝承が残る。
 かつて時姫という女性がいた。時姫は、2人の男に愛されていたという。一人の男は、自らの身分が低いため、恋は叶わないと悲観し時姫の首を刎ねて殺めたという。
 だが、実際には、時姫の身代わりになって首を刎ねられたのは地蔵尊だった。以来、地蔵尊は首を失った。
 身代わり地蔵は、女性の味方という。地蔵尊に祈願すると、体の部分で気に入らないところを一つだけ治してくれる。また、身代わりになり、病なども平癒してくれるという。
◆桶取地蔵 「桶取(おけとり)地蔵」の伝承も残る。
 壬生近くの白拍子・松並千歳(まつなみ ちとせ)の娘・照子は、生まれつき左手の指が3本しかなかった。照子は、来世こそは、障がいのない人間に生まれることを願い、更雀寺(壬生寺とも)の地蔵尊に日参したという。その際に、壬生の尼ヶ池の水(福田寺)を閼伽水として汲み、地蔵に供えていたという。そのため、桶取地蔵と呼ばれた。
 壬生狂言「桶取」にも登場する。体の不自由な娘が壬生寺に日参していた。同じく参拝していた男と知り合いになる。男には妻があり、妻は嫉妬のあまり狂死する。2人は悔いて出家した。娘は、尼ヶ池の水を汲み地蔵尊に供えたという。
◆朱雀院 境内には、朱雀院の苑池遺構という「尼ヶ池」がわずかに残る。「尼池舊跡」の碑も立つ。福田寺は朱雀院の北辺に位置していたとみられている。異説もある。
 朱雀院は、平安時代の嵯峨上皇(第52代、786-842)の離宮の一つとして営まれた。第59代・宇多天皇(867-931)も利用した。敷地は縦に細い長方形をしており、三条大橋の南、朱雀大路(千本通)の西、四条大路の北、皇嘉門小路(七本松通)の東に及び、南北4町(530m)、東西2町(290m)を占めていた。現在の中京区壬生花井町、天池町の全域、朱雀町、御所ノ内町の西側の一部を含んだ。
 朱雀院の文献初見は、836年の『続日本後紀』であり、嵯峨天皇太皇太后・橘嘉智子(786-850)に寄進された。宇多天皇も度々行幸している。898年、後院として移し、宇多天皇女御・温子(872-907)も移った。(『日本紀略』)
 推定復元によれば、朱雀院内には、ほぼ中央に南池が広がり、中島が2つ造られていた。池の北に寝殿(本殿)の建物群、その北東に柏梁殿の建物群が建つ。南池は、北東方向の東池に繋がり、流水は北東隅より南へ導かれていた。東に馬場、馬場殿が建ち、池と馬場の間に島町という釣殿様の建物があった。南には南山という小丘があった。その丘の西、敷地の南西隅に、石神(いわがみ)明神、隼(はやぶさ)社が祀られていた。(『貞信公記』『拾芥抄』)。950年に島町の雑舎は焼失している。(『園太記』)。その後、荒廃する。
 後に朱雀院は荒廃した。平安時代、第60代・村上天皇(926-967)が再建し、離宮として利用する。その後、再び荒廃した。鎌倉時代、1205年の『明月記』には、旧朱雀院の地は、すでに遊猟地として記されている。
◆源氏物語 『源氏物語』第7帖「紅葉賀」巻に、朱雀院への行幸に際して、光源氏、頭中将は、青海波を舞う。


*非公開、 要事前連絡。門前の尼ヶ池みがわり地蔵にはお参りできます。
*参考文献 『京都市の地名』『京都史跡事典』『紫式部と平安の都』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京のしあわせめぐり55』


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