光福寺 (干菜寺) (京都市左京区)
Kofuku-ji Temple
光福寺 (干菜寺) 光福寺 (干菜寺) 
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山門






「六斎念仏総本寺」の石標






門前にある石碑に刻まれた干菜寺六斎念仏の様子


本堂、参道





本堂
 田中上柳町(たなか かみやなぎちょう)に光福寺(こうふくじ)はある。門脇に「六斎念仏総本寺」の石標が立つ。六斎念仏弘通(ぐずう)の寺として知られる。 
 「干菜寺(ほしなでら)」ともいわれる。正式には「干菜山斎教院安養殿光福寺」という。
 浄土宗知恩院派、本尊は阿弥陀如来像。
◆歴史年表 鎌倉時代、寛元年間(1243-1247)、道空は、乙訓郡西山安養谷(あんようがたに、長岡京市浄土谷)の東善寺を中興した。それを前身にするという。その後、衰微した。
 室町時代、永正年間(1504-1521)、草創されたともいう。
 天文年間(1532-1554)、4世・信光により再興される。併せて斎教院が開かれた。
 安土・桃山時代、1582年、丹波国の7世・月空宗心(げっくう そうしん)により現在地に移される。丹波国(北桑田郡宇津<うつ>、京北町)の武蔵寺(ぶぞうじ)を合併し、「斎教院武蔵寺」といわれたという。
 1593年、豊臣秀吉は鷹狩の際に当寺に立ち寄る。住職・宗心が干菜(ほしな)を供し、秀吉は「干菜山光福寺」の称号を与えたという。
◆道空
 鎌倉時代の僧・道空(?-1315)。詳細不明。12世紀(1101-1200)中頃、六斎念仏を興し広めた。常行院(じょうぎょういん)を春日通烏丸に建て、六斎念仏を興した。寛元年間(1243-1247)、乙訓郡西山安養谷・東善寺を中興した。1264年、宮中に召され、第90代・亀山天皇に六斎念仏勤行の勅命を受けたという。干菜寺の中興開山、西方寺を中興したともいう。
◆仏像 本尊「阿弥陀如来像」は、鎌倉時代、1313年に、第95代・花園天皇から贈られたという。閉目している。
◆干菜寺 干菜寺の別号についての伝承がある。
 干菜(ほしな、乾菜)とは、大根や蕪の葉を干したもので、味噌汁の具材、漬物にもした。菜を入れた風呂の干菜湯もあった。
 安土・桃山時代、1593年、豊臣秀吉は聚楽第に在住の頃、鷹狩の際に当寺に立ち寄った。住職・宗心は、貧しい寺であるため何も供することができなかった。干菜(ほしな)一把を出すと、秀吉は感服し、「干菜山光福寺」の称号を与えたという。
 また、高野河原での念仏踊りが秀吉の目にとまる。寺に秀吉を招いて干菜を供すると、秀吉は大いに喜んだともいう。
◆六斎念仏 道空は、常行院(じょうぎょういん)を春日通烏丸に建て、六斎念仏を興している。鎌倉時代、1264年、道空は宮中に召され、第90代・亀山天皇に六斎念仏勤行の勅命を受けたという。
 寺は、室町時代、第104代・後柏原天皇(在位1500-1526)により、「六斎念仏総本寺」の勅号を受けた。安土・桃山時代、秀吉の頃、六斎念仏総本山に定められたという。
 当寺の六斎念仏は、念仏本来の姿を伝えているという。知恩院で50年毎に催された法然大遠忌には、寺の支配下にある僧により六斎念仏が演じられてきた。当寺は、芸能系の空也堂系と並ぶ京都の六斎念仏の拠寺になっている。
◆庭園 枯山水式庭園がある。豊臣秀吉より贈られた聚楽第の名石が移されたという。臥牛(がぎゅう)石、片山石、諸眉(もろまゆ)石などの名が挙がる。
 植栽により深山から枯滝が落ち、流れに水分石が配されている。大河は白砂の曲がりくねった流れにより表現されている。河には低く抑えられ切石の橋が架かる。河岸に石が敷かれ、石が配されている。
◆文化財 『六斎念仏興起書』など六斎念仏関係資料がある。
 秀吉寄進という陣太鼓、秀吉画像などもある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『昭和京都名所図会 5 洛中』『秀吉の京をゆく』『京都大事典』『京都 阿弥陀の寺と庭』、当寺案内板、ウェブサイト「コトバンク」


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「南無阿弥陀仏」の石碑

水子地蔵尊

鬼瓦
光福寺 〒606-8205  京都市左京区田中上柳町56  075-781-4681
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