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大通院 〔妙心寺〕 (京都市右京区) Daitsu-in Temple |
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大通院 | 大通院 |
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妙心寺境内のほぼ中央に塔頭・大通院(だいつう-いん)がある。 臨済宗妙心寺派。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、1586年、一柳直末(ひとつやなぎ-なおすえ)が妙心寺58世・南化玄興(なんか-げんこう)を請じて創建した。(「寺院明細帳」)。以後、一柳家の菩提所になる。 2世・湘南宗化(しょうなん-そうか、1586?-1637)が中興した。以来、山内家の菩提塔頭になる。 江戸時代、1633年、湘南は一豊夫人・見性院(千代)の17回忌にあたり、見性閣(現在の霊屋とみられている)を建立した。 1799年、庭園について「当山第一」と記されている。(『都林泉名勝図会』) 近代、1878年、取畳み(とりたたみ、建物の廃止、取り壊し)の際に、本尊は塔頭・智勝院に一時安置された。 1901年、高巌院を合併し、再建される。 ◆南化 玄興 室町時代後期-江戸時代前期の臨済宗の僧・南化 玄興(なんか-げんこう、1538-1604)。男性。定慧円明国師。美濃(岐阜県)の生まれ。土岐氏一族の出自。邦叔宗禎(ほうしゅく-そうてい)、快川紹喜(かいせん-じょうき)に師事する。1570年、33歳で妙心寺58世になる。その後、4度住持を務めた。1586年、妙心寺・大通院を開く。美濃・瑞竜寺、尾張・妙興寺を復興している。1591年、豊臣秀吉は、3歳で死去した愛児・鶴松(棄丸)の菩提のために、南化を開山に招いて祥雲寺を建立した。第107代・後陽成天皇、武将・大名で、豊臣政権の五大老の一人・上杉景勝(1556-1623)、武将・大名の直江兼続(1560-1619)らが帰依した。67歳。 南化を開山として、妙心寺内に隣華院、大通院を創建している。 ◆一柳 直末 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・一柳 直末(ひとつやなぎ-なおすえ、1553-1590)。男性。美濃(岐阜県)の生まれ。父・土岐氏の臣・一柳直高の長男。1570年、豊臣秀吉に仕え信を得る。播磨国平定に戦功をあげ黄幌衆に列した。兵糧奉行、普請奉行、1583年、賤ヶ岳の戦、1584年、小牧・長久手の戦、1585年、紀州雑賀攻め、四国征討に参じた。1585年、田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一秀次の宿老に任命され、美濃大垣城主、従五位下、伊豆守になる。1589年、美濃軽海城主に転封になった。1590年、小田原攻めで伊豆山中城攻撃で被弾討死した。報に接した秀吉は悲嘆したという。院殿号は「大通院天叟紹運」。38歳。 ◆湘南 宗化 安土・桃山時代-江戸時代前期の臨済宗の僧・湘南 宗化(しょうなん-そうけ、1586?-1637)。男性。拾(ひろい)。大航普済禅師。実の両親は不明、養父は山内一豊、養母は一豊妻・見性院。1585年、一豊夫妻は近江国長浜で長女・よねを地震で失う。1587年、夫妻に長浜城外で拾われ、拾と名付けられ育てられたという。1595年頃、養父の命で山内家連枝(分家)として家を離れ出家する。京都で修行し、養父母から土佐・吸江寺を与えられ住職になる。よねの墓がある妙心寺・大通院の開祖・南化玄興(なんか-げんこう)の弟子になる。湘南宗化と称し2世になる。朝廷より紫衣の勅許を受けた。土佐慶徳山・円明寺を中興した。大通院で山内家の菩提を弔う。51歳?。 妙心寺時の弟子に儒学者・山崎闇斎(絶蔵王)がいる。 ◆山内 一豊 室町時代後期-江戸時代前期の武将・山内 一豊(やまうち-かずとよ、1546-1605)。男性。猪右衛門、伊右衛門。尾張(愛知県)の生まれ。父・黒田城主・山内盛豊。1555年、織田伊勢守家が信長により断絶後、後に信長に仕えた。1570年、越前金ヶ崎城攻め、姉川の戦に加わる。豊臣秀吉に仕え、1573年、近江長浜唐国で所領を得る。1577年、播磨に所領を得る。1582年、秀吉の馬廻衆として黄母衣衆になる。1585年、若狭高浜城、近江長浜城、豊臣家直轄領の代官、従五位下・対馬守に叙任された。1590年、小田原攻め後、遠江掛川城主、検地、掛川城築城、城下町を整備した。1600年、関ヶ原の戦で東軍に与し、徳川家康の会津攻めに従う。妻からの大坂方の人質政策などを記した密書を提供し、その功により土佐・高知城主、土佐藩祖になる。60歳。 駿河国に葬られる。院殿号は「大通院殿心峰宗伝」。妙心寺・大通院(右京区)にも夫妻の墓(比翼塚)がある。 ◆見性院 室町時代後期-江戸時代前期の見性院(けんしょういん、1557-1617)。詳細不明。女性。千代、まつ。美濃(岐阜県)の生まれともいう。父・近江・浅井氏家臣・若宮左馬助(喜助友興)、生年に父が戦死、母とともに叔母に養育された。土佐藩初代藩主・山内一豊の正室になる。夫の欲しがった名馬を自らの持参金を差し出して購入した。馬揃えの際に主君・織田信長の目に留まり、それにより夫が加増されたという。1585年、湖国の地震により一人娘・よねを6歳で喪う。その後、捨子・拾(ひろい)を養育した。1600年、関ヶ原の戦いの直前に、徳川家康に従い関東に出陣した夫に、大坂方の人質政策などを記した密書を提供した。1605年、夫の死後に出家した。妙心寺で見性院の法号を授与した。土佐より、1606年以降、養子・湘南宗化(拾)の妙心寺近く、桑原町の隠居所に移り晩年を過ごした。1617年、宗化に800石を寄進した。60歳。 古典を読み、書・裁縫に優れ、良妻賢母の鑑とされた。 墓は妙心寺・大通院(右京区)にある。法号は「見性院殿且験潙宗紹劉大姉」。 ◆田中 孫作 江戸時代前期の田中 孫作( たなか-まごさく、?- 1628)。詳細不明。男性。近江国(滋賀県)の生まれ。山内一豊家の家人になる。1600年、一豊が会津・上杉景勝討伐の軍に加わった際に、大坂で留守居の千代夫人(見性院)は、密書を孫作の笠緒に織り込んで持たせた。孫作はそれを果たしたという。また、関ヶ原の戦いの前に、小早川秀秋の陣を訪れ、東軍に付くように説得したという。 墓は妙心寺・大通院(右京区)にある。 ◆木像 本堂須弥壇中央に「湘南宗化木像」が祀られている。曲彔(きょくろく、椅子)に坐した等身大像になる。彩色。 ◆建築 ◈「霊屋(おたまや)」は、墓地中央にある。江戸時代前期、1633年、湘南は一豊夫人の見性院(千代)の17回忌にあたり、見性閣を建立した。以後、山内家の菩提所になる。墓地中央に現存する霊屋がこれに当たるとされている。宝形造、総ヒノキ造、檜皮葺。 霊屋内に一豊夫婦の無縫塔2基(1m)、夫妻の位牌(1m)、夫妻の晩年の画像(掛軸)が安置されている。 ◆庭園 江戸時代後期、1799年の『都林泉名勝図会』にも庭園について記されている。湘南宗化が作庭し、奇樹奇岩多く、「当山第一にして二に双ぶものなし」の名庭としている。石は紀州・善通寺の夾山和尚に求めたという。 現在は失われている。 ◆笠の緒の文 安土・桃山時代、1600年旧6月に、山内一豊(1546-160)は徳川家康(1543-1616)に従い、会津・上杉景勝(1556-1623)の討伐のため大坂より出陣した。 他方、大坂で留守居していた妻・千代(見性院、1557-1617)には、石田三成(1560-1600)から文箱が届いていた。家康打倒の勧誘状だった。千代はすぐに家人・田中孫作(?-1628)を呼び、書をしたためた。上方の情勢と、自分のことは心配せずに家康への忠誠を尽くようにという内容だった。他見されないため手紙を紙縒(こより)とし、孫作の笠緒に織り込んだ。文箱も持たせて出立させた。孫作は途中で強盗に襲われ衣類・刀・脇差を奪われている。 旧7月24日の夜に、孫作は下野(栃木県)の諸川(もろかわ)で一豊の軍に追いつき役目を果たした。一豊は密書を読むと、文箱の封を切らず、そのまま家康に差し出した。家康は千代の機転に感心し、山内家は加増になり、土佐一国の大大名になった。孫作の子孫は山内家の家臣として明治期まで続いたという。 ◆墓 ◈霊屋内の右に山内一豊・左に見性院(千代)夫婦の無縫塔2基(比翼塚)が立つ。ほか、位牌・画像も祀られている。 ◈山内家重臣の墓がある。土佐藩士は、京都に常駐し見性院(千代)に仕えていた。 ◈霊屋の脇に田中孫作の墓がある。 ◈湘南宗化の墓がある。 *非公開 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『妙心寺』、『妙心寺 六百五十年の歩み』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都大事典』、『おんなの史跡を歩く』、『京に燃えた女』 、『京都戦国武将の寺をゆく』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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