智勝院 〔妙心寺〕 (京都市右京区)
Chisho-in Temple
智勝院 智勝院 
50音索引   Home 50音索引   Home












 妙心寺境内北に塔頭・智勝院(ちしょういん)はある。 
 臨済宗妙心寺派。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1597年、稲葉貞通は、父・一鉄の菩提を弔うために、妙心寺74世・単伝士印(たんでん しいん)を開祖として創建した。院号は貞通の法号「智勝院殿一等玄規大居士」による。
◆単伝士印 安土・桃山時代の臨済宗の僧・単伝士印(たんでん しいん、生没年不詳)。詳細不明。大光普照禅師。南化玄興の法嗣。春日局の帰依を受ける。1597年智勝院開山。1629年紫衣事件では妙心寺硬派に属し、幕府に抗議したため出羽由利郡本荘藩・泉流寺に配流された。
◆稲葉貞通 室町時代-安土・桃山時代の武将・稲葉貞通(1546-1603)。稲葉一鉄(良通)の長男、母は三条西公条の娘。1579年、父より譲られ美濃曾根城主、織田信長に仕え各地を転戦した。1582年、本能寺の変後、父と共に豊臣秀吉に属し、伊勢攻め、九州攻めに従う。1588年、郡上八幡城に移り、羽柴郡上侍従と呼ばれた。1600年、関ヶ原の戦で西軍に属し尾張犬山城に籠った。同年、織田秀信の岐阜城落城後、徳川家康に降服した。伊勢長島攻め、近江水口城攻めの戦功により豊後臼杵5万石に転封、臼杵城主、初代臼杵藩主になった。
 南化玄興に帰依し、美濃・華渓寺、智勝院を開基した。
◆稲葉良通 室町時代-安土・桃山時代の武将・稲葉良通(1515-1589)。一鉄。美濃の人。父・稲葉通則6男。母は国枝正助の娘、一色義遠の娘ともいう。春日局外祖父。幼少時に崇福寺で学び、快川紹喜につく。1525年、父、兄らが牧田の戦いで敗死し、還俗し家督と曽根城を継いだ。土岐頼芸、斎藤利政(道三)に仕え、西美濃三人衆の一人になる。1555年、長良川の戦いで利政の子・義龍に付く。1567年、三人衆は信長へ内応し、稲葉山城の戦いで美濃からの敗走を決した。以後、信長に従い、各地を転戦、戦功により美濃清水城を与えられた。1579年、家督と曽根城を嫡子・稲葉貞通に譲り、美濃清水城に移る。1584年、小牧・長久手の戦いで武功を挙げた。1585年、秀吉が関白になり従三位・法印に叙された。美濃清水城で亡くなる。法名「清光院殿一 鉄宗勢大居士」。
 茶道、歌道、茶道、医道にも通じた。
◆斎藤利三 室町時代の武将・斎藤利三(1534-1582)。父・斎藤利賢の次男、母・蜷川親順女。土岐氏、斎藤道三より斎藤氏3代、織田信長、豊臣秀吉に仕える。美濃国曽根城主で、安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称される。三人衆の一人稲葉一鉄が織田氏へ寝返りその家臣になり、美濃曽根城主になる。後、稲葉一鉄と別れ、明智光秀に仕え、筆頭家老として丹波黒井城主になる。1582年、光秀の織田信長に対する謀反の本能寺の変後、羽柴秀吉との山崎の戦いで敗走した。秀吉方の捜索により近江堅田で捕縛、六条河原で斬首された。首、胴は光秀とともに本能寺に晒されたともいう。首級は親交の深かった絵師・海北友松により、真正極楽寺へ葬られた。妙心寺・智勝院にも墓がある。
◆紫衣事件 江戸時代、1613年、徳川家康は「勅許紫衣之法度」発布により、大徳寺、妙心寺など7寺の住持に関して、勅許の前に幕府に予告することを定めた。だが、妙心寺、大徳寺は応じなかった。引き続き1615年、住持についての法度「諸宗本山諸法度(元和の法度)が出される。1626年、第108代・後水尾天皇は幕府に報告なく、妙心寺、大徳寺などの僧に紫衣着用を許可したため、幕府はそれを無効とした。1627年の「諸宗法度」により、幕府は法度の厳守を求める。1628年、大徳寺の澤庵宗彭が起草し、玉室宗珀、江月宗玩らが署名した抗弁書が京都所司代に提出された。1629年、三氏は幕府により江戸に呼び出され、藤堂高虎、以心祟伝、天海らの評議を受けた。それでも抵抗した澤庵は出羽上山藩、玉室は陸奥棚倉藩、妙心寺の単伝士印は出羽本庄藩、東源慧等は陸奥弘前藩に流罪になる。また、1615年以来、幕府の許可なく着した紫衣を剥奪した。
 この紫衣(しえ)事件は、高僧が着る法衣の紫衣の勅許は朝廷の権限であったものを、幕府に事前に知らせることで幕府による寺院統制を行うものだった。関わった僧は流罪にされ、後水尾天皇は譲位しこれに抗したといわれている。
◆文化財
 筆致により長谷川等伯筆とされる、絹本著色「稲葉一鉄像」(重文)は、像の上に「天正十七年(1589年)玉甫紹琮」の賛がある。稲葉一鉄(良通)没後一周忌に、子・貞通が京都の画家に命じて描かせたものという。
 大徳寺130世・玉甫紹琮、稲葉家と等伯は関わりがある。1589年に等伯は、大徳寺三門などの制作を行っている。1609年には、玉甫の像を描いた。また、等伯は稲葉家の後押しにより、秀吉が創建した祥雲寺の障壁画(現智積院)を手掛けたともいわれている。像は左を向き、上畳の上に坐している。太刀を右の傍に置き、手には扇を立てる。白の直綴に黒の薄物の道服を重ねている。
 単伝士印宛の書状、その返書がある。連署には妙心寺・後園庵宗茂、衡梅院・紹こん(王+昆)、亀仙庵・元珠、桂昌院・玄杲、維那全瑶、侍真道昌らの名がある。
◆墓 清光院殿(稲葉良通)、智勝院殿(稲葉貞通)、斎藤利三夫妻の墓がある。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『妙心寺』『妙心寺 六百五十年の歩み』『別冊太陽 長谷川等伯』


  関連・周辺妙心寺(右京区)      周辺      関連          
智勝院 〒616-8035 京都市右京区花園妙心寺町48   075-462-1896
50音索引  Home   50音索引  Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光