金剛院 〔天龍寺〕 (京都市右京区)
Kongo-in Temple
金剛院 金剛院 
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【参照】光厳法皇(北朝初代)の髪塔、境内の西にある。
 天龍寺の境外、総門の東に塔頭・金剛院(こんごういん)がある。境内の西に当院とゆかりある光厳法皇(北朝初代)の髪塔が隣接している。
 臨済宗天龍寺派。 
◆歴史年表 南北朝時代、1364年、春屋妙葩(しゅんおく-みょうは)が、光厳法皇(北朝初代)の寿塔として建立した。当初は、境内の東にあった。
 北朝第4代・後光厳天皇(1338-1374)の寿塔も建てられる。
 北朝第2代・光明天皇(1322-1380)は、北朝第3代・崇光天皇(1334-1398)が播磨国南条郷を天龍寺に寄進したものの半分を院の料所とした。その後、乱世のためそれを失い荒廃する。
 室町時代、天文・永禄年間(1558-1570)、境内は借地になり、寺号だけが残る。
 その後、現在地に移され再興された。
◆春屋妙葩 鎌倉時代後期-南北朝時代の臨済宗の僧・春屋妙葩(しゅんおく-みょうは、1311-1388)。諱は妙葩、字は春屋、芥室(かいしつ)、不軽子(ふきょうし)、西河潜子(せいがせんし)、国師号は知覚普明など。七朝の国師と称され、7代の天皇に国師号を贈られた。甲斐(山梨県)の生まれ。夢窓疎石の甥。7歳で美濃国の虎渓山に法華経を学ぶ。1322年、甲斐・慧林寺の道満につく。1325年、得度し、1326年、南禅寺住持の夢窓のもとで登壇受戒した。夢窓に従い鎌倉の浄智寺・瑞泉院(後の瑞泉寺)に移る。1327年より、鎌倉・浄智寺の元の渡来僧・竺仙梵僊(じくせん-ぼんせん)に師事し、鎌倉・円覚寺に赴く。1334年より、竺仙の書状侍者になり、1335年、京都の夢窓に参じた。1336年、南禅寺・元の渡来僧・清拙正澄(せいせつ-しょうちょう)に梵唄(声明)を学んだ。1345年、天龍寺・雲居庵主、夢窓により春屋の号を受け印可を得た。1357年、等持寺に住した。1351年、夢窓没後、無極志玄につき、1359年、その没後は同派領袖の一人となる。1363年、天龍寺に住した。1368年、南禅寺山門破却事件で延暦寺と対立、管領・細川頼之の裁定に反発した。強硬派の春屋一派は朝廷、幕府に抗議した。1371、春屋らは丹後・雲門寺に10年間隠棲する。1379年、頼之失脚後、天龍寺・雲居庵、南禅寺住持に戻り、足利義満の帰依を得た。初代禅宗最高要職・天下僧録司に任じられた。宝幢寺住持、寿塔を建て鹿王院と名付ける。1380年、智覚普明国師の号を賜る。1382年、天龍寺再住、義満の相国寺創建に際し、夢窓を勧請開山とし自らは2世になった。鹿王院で亡くなる。著『夢窓国師年譜』、詩集『雲門一曲』。78歳。金剛院に葬られる。相国寺・大智院にも分葬された。
 夢窓派の興隆に寄与した。大光明寺などに歴住し、天竜寺、臨川寺を再興した。儒学、漢詩文に通じ、五山文学僧であり、五山版の祖録、外典など出版事業にも業績を残した。
◆光厳天皇 鎌倉時代後期-南北朝時代の北朝初代・光厳天皇(こうごん-てんのう、1313-1364)。名は量仁(かずひと/ときひと)、法名は勝光智(しょうこうち)、無範。第93代・後伏見天皇の第1皇子。母は広義門院・藤原寧子。1326年、第96代・後醍醐天皇皇太子・邦良親王の没後、両統迭立案により祖父・伏見上皇の意向で持明院統の正嫡として、鎌倉幕府の支持により皇太子になる。1331年、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐を企てた元弘の変の失敗後、後醍醐天皇は笠置に遷幸した。量仁親王は、北条高時に擁立されてが践祚、即位した。持明院統の天皇になる。父・後伏見天皇が院政を行う。1332年、後醍醐天皇の隠岐島配流、1333年、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は吉野に移り南北朝に分裂した。光厳天皇は廃され太上(だいじょう)天皇(上皇)になる。建武新政後、1335年、足利尊氏は挙兵し、1336年、足利尊氏は後醍醐天皇に離反したものの、光厳上皇の院宣により朝敵を免れた。尊氏の政権掌握により尊氏の要請で光厳上皇は、弟の北朝第2代・光明天皇(豊仁親王)を即位させ院政に当たる。後醍醐天皇は神器を携え吉野に逃れ、持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の対立は深まる。1348年、光厳上皇は、北朝第3代・崇光天皇にも院政を執る。1351年、第97代天皇・南朝第2代・後村上上皇は崇光天皇を廃した。南朝が優勢になり、北朝が廃せられた。(正平[しょうへい]一統)。1352年、光厳上皇、光明上皇、崇光上皇ら北朝3代上皇は、南朝軍に拉致され河内、大和賀名生(あのう)などに移され幽閉された。光厳上皇は、夢窓疎石に帰依し村上天皇の行宮に移り、剃髪し勝光智(しょうこうち)と称した。河内の金剛寺に移り、孤峰覚明に帰依し光智に改めた。1357年、帰京し、伏見深草・光厳院入る。1362年、巡礼に出た。最晩年、京北の常照皇寺で禅僧として余生を送る。無範和尚と号した。
 和漢儒仏の学に通じた。中厳円月(ちゅうがん-えんげつ)、春屋妙葩(しゅんおく-みょうは)、清渓通徹(せいけい-つうてつ)などに師事、帰依した。『風雅和歌集』に着手、笙、伏見院流の書に秀でた。日記『光厳院宸記』がある。
 常照皇寺(右京区京北)で亡くなり山国陵(右京区京北)に葬られた。52歳。塚には松柏のみを植えることを許した。天龍寺・金剛院(右京区)に遺髪塔がある。分骨所は金剛寺(大阪府河内長野市)にある。近代以降、歴代の天皇から除かれる。
◆後光厳天皇 南北朝時代の北朝第4代・後光厳天皇(ごこうごん-てんのう、1338-1374)。弥仁(いやひと)。法名は光融。持統院統・北朝初代・光厳天皇の第2皇子。母は藤原秀子(陽禄門院[ようろくもんいん])。崇光天皇の同母弟。大納言・日野資名、宝禅尼に養育された。妙法院門跡への入室が予定されていたが、足利尊氏と弟・直義の政争である観応の擾乱(1349-1352)により延期になる。1351年、兄・北朝第3代・崇光天皇が南朝によって退位させられる。1352年、南軍は京都を急襲し、敗れた南朝の第97代・南朝第2代・後村上天皇は、光厳上皇・光明(北朝第2代)・崇光上皇の3上皇、直仁親王を拉致し、大和賀名生(あのう)に逃れた。室町幕府による上皇の還京は実現せず、足利氏による北朝再興になる。異例の祖母・第93代・後伏見中宮・広義門院(西園寺寧子)の命により、15歳の弥仁親王(北朝第4代・後光厳天皇)が土御門内裏で践祚された。当初は広義門院が執政した。1353年、足利尊氏・義詮(よしあきら)に擁され、神器も伝国詔宣を発する上皇もない異例の即位だった。その後は親政を行う。1353年-1361年、南朝軍は3度攻撃を行い、後光厳天皇は、美濃小島の行宮、近江、武佐などに逃れた。1371年、南朝に幽居中の崇光上皇は、後継に皇子・栄仁(よしひと)親王を望む。後光厳天皇は、三宝院光済、義満嫡母・渋川大人氏らの周旋、執政・細川頼之の協力を得て、自らの皇子・緒仁(おひと)親王(北朝第5代・後円融天皇)に譲位した。その後、柳原殿で院政を行う。37歳。
 書に優れた。歌集に『後光厳院百首和歌』、日記に『後光厳院御記』がある。
 陵墓は深草北陵(伏見区)にある。分骨所は泉涌寺内の龍雲院(東山区)内に方形があるとする。(『建内記』)


*普段は非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料  『天龍寺』、『京都の禅寺散歩』、『事典 日本の名僧』 、ウェブサイト「コトバンク」


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金剛院 〒616-8374 京都市右京区嵯峨天竜寺北造路町14  075-871-5115 
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