光厳天皇 遺髪塔 (京都市右京区)  
The hair of the deceased tower of Emperor Kogon
光厳天皇 遺髪塔 光厳天皇 遺髪塔
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 天龍寺の東、塔頭・金剛院(こんごういん)の西隣に、北朝初代・光厳天皇遺髪塔(こうごん-てんのう-いはつとう)がある。
◆歴史年表 南北朝時代、1364年、春屋妙葩(しゅんおく-みょうは)が、光厳法皇(北朝初代)の寿塔として金剛院を建立した。7月7日(新暦8月5日)、光厳法皇は常照皇寺(右京区京北)で亡くなる。7月8日、後山で火葬にされた。山国陵(右京区京北)に葬られる。
 年代不詳、その後、現在地に遺髪塔が立てられた。 
◆光厳天皇 鎌倉時代後期-南北朝時代の北朝初代・光厳天皇(こうごん-てんのう、1313-1364)。名は量仁(かずひと/ときひと)、法名は勝光智(しょうこうち)、無範。第93代・後伏見天皇の第1皇子。母は広義門院・藤原寧子。1326年、第96代・後醍醐天皇皇太子・邦良親王の没後、両統迭立案により祖父・伏見上皇の意向で持明院統の正嫡として、鎌倉幕府の支持により皇太子になる。1331年、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐を企てた元弘の変の失敗後、後醍醐天皇は笠置に遷幸した。量仁親王は、北条高時に擁立されてが践祚、即位した。持明院統の天皇になる。父・後伏見天皇が院政を行う。1332年、後醍醐天皇の隠岐島配流、1333年、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は吉野に移り南北朝に分裂した。光厳天皇は廃され太上(だいじょう)天皇(上皇)になる。建武新政後、1335年、足利尊氏は挙兵し、1336年、足利尊氏は後醍醐天皇に離反したものの、光厳上皇の院宣により朝敵を免れた。尊氏の政権掌握により尊氏の要請で光厳上皇は、弟の北朝第2代・光明天皇(豊仁親王)を即位させ院政に当たる。後醍醐天皇は神器を携え吉野に逃れ、持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の対立は深まる。1348年、光厳上皇は、北朝第3代・崇光天皇にも院政を執る。1351年、第97代天皇・南朝第2代・後村上上皇は崇光天皇を廃した。南朝が優勢になり、北朝が廃せられた。(正平[しょうへい]一統)。1352年、光厳上皇、光明上皇、崇光上皇ら北朝3代上皇は、南朝軍に拉致され河内、大和賀名生(あのう)などに移され幽閉された。光厳上皇は、夢窓疎石に帰依し村上天皇の行宮に移り、剃髪し勝光智(しょうこうち)と称した。河内の金剛寺に移り、孤峰覚明に帰依し光智に改めた。1357年、帰京し、伏見深草・光厳院入る。1362年、巡礼に出た。最晩年、京北の常照皇寺で禅僧として余生を送る。無範和尚と号した。
 和漢儒仏の学に通じた。中厳円月(ちゅうがん-えんげつ)、春屋妙葩(しゅんおく-みょうは)、清渓通徹(せいけい-つうてつ)などに師事、帰依した。『風雅和歌集』に着手、笙、伏見院流の書に秀でた。日記『光厳院宸記』がある。
 常照皇寺(右京区京北)で亡くなり山国陵(右京区京北)に葬られた。52歳。塚には松柏のみを植えることを許した。天龍寺・金剛院(右京区)に遺髪塔がある。分骨所は金剛寺(大阪府河内長野市)にある。近代以降、歴代の天皇から除かれる。
◆遺髪塔 塔頭・金剛院の西隣に遺髪塔がある。詳細は不明。南面している。


北1 光厳天皇(在位:1331-1333)→北2 光明天皇(在位: 1336-1348) →北3 崇光天皇(在位:1348-1351) →北4 後光厳天皇(在位:1352-1371)

93 後伏見天皇 (在位:1298-1301)→ 94 後二条天皇(在位:1301-1308)→ 95 花園天皇 (在位:1308-1318)→96 後醍醐天皇 (在位:1318-1339)

*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『古代史研究の最前線 天皇陵』、『図説天皇陵』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 光厳天皇 遺髪塔  〒616-8374  京都市右京区嵯峨天龍寺北造路町
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