報恩寺 (京都市上京区) 
Hoon-ji Temple
報恩寺 報恩寺 
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石橋、宝珠の欄干、小川の跡








客殿




那羅延金剛


密迹金剛




庫裡、鬼瓦(蛇)






中門


客殿(方丈)




客殿前の庭園






前庭










五重塔


五重塔




地蔵堂



地蔵堂



地蔵堂



鐘楼



梵鐘





賓頭盧頗羅堕闍尊者



賓頭盧頗羅堕闍尊者



稲荷社



稲荷社



稲荷社



稲荷社



稲荷社



稲荷社、小祠



稲荷社、小祠








【参照】賀陽宮墓


【参照】「高嶽院殿心源榮芳大姉」


【参照】「桂徳院宮 尊儀」



【参照】江戸時代の『都名所図会』に描かれた報恩寺(ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター)


【参照】門前の町家の家並
 射場町(いば-ちょう)に報恩寺(ほうおん-じ)はある。皇室とのゆかりも深い。山門は東面し、かつて門前に小川(こかわ、百々川)が流れていた。いまは石橋だけが残されている。
 鳴虎(なきとら)図を所蔵し、「鳴虎(なきとら)」「鳴虎の報恩寺」ともいわれる。山号は尭(堯)天山(ぎょうてん-さん)、院号は佛牙院という。 
 浄土宗知恩院派。本尊は阿弥陀如来像。
 洛陽阿弥陀四十八願寺の第12願所。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、866年、円仁が創建した葉室(はむろ)山浄住寺(西京区)を前身とするともいう。当初は天台宗だった。「法園寺」と称したともいう。また、室町時代中期まで法音寺と称し、八宗兼学、また、天台・浄土兼学だったともいう。一条高倉付近(現在の御所御苑内、内裏北東、後の有栖川高松殿邸)にあり「一条之報恩寺」と呼ばれていた。(寺伝、「報恩寺文書」『雍州府志』)
 鎌倉時代、叡尊(1201-1290)が中興する。(寺伝)
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失する。その後、第86代・後堀河天皇の第1女・室町女院(1228-1300)より贈られた仏牙舎利などは浄住寺に遷されたという。(寺伝、『雍州府志』『仏牙舎利縁起』)
 1494年、明応年間(1492-1501)、明泉が創建した法音寺を前身とするともいう。
 1501年 第104代・後柏原天皇により、西蓮社慶誉(きょうよ)上人一風明泉(慶誉、明泉)は綸旨を贈られ、浄土宗として開山した。堀川今出川、舟橋の地に再興したともいう。
 1502年、寺号も報恩寺と改め、後柏原天皇により勅額「報恩寺」を贈られる。天皇より仏舎利、浄土変相、千体地蔵像、虎の図、興正菩薩の二十五条袈裟などを贈られる。
 1504年、公卿・中御門宣胤が立ち寄り、浄土法談を開く。(『宣胤卿記』)
 安土・桃山時代、1576年、天正年間(1573-1592)とも、織田信長の命により、寺地は二条家に与えられる。(『言経卿記』)
 1585年、羽柴(豊臣)秀吉により、相国寺塔頭・鹿苑寺の旧地から寺之内の現在地に移る。(報恩寺文書、下知状)
 1588年、第107代・後陽成天皇より完成祝賀の消息、六字名号を贈られる。
 1600年、備後国福知山藩祖・阿部正勝を葬る。2年後、弟、父子も葬る。
 1602年、秀吉の侍尼・仁舜尼より、門前を流れる小川(百々 [どど] 川)の石橋が寄進される。
 江戸時代、1623年、徳川秀忠、家光が参内のために上洛し二条城に宿した。筑前・黒田長政は江戸より入洛し、報恩寺に宿泊する。当寺客殿で病死する。
 1711年、焼失したともいう。
 1730年、享保の大火(西陣焼け)で類焼する。本尊、古文書などは難を免れた。
 1733年、本堂再建の祈願法要を修した。
 1737年、本堂再建の上棟式が行われる。遷仏法要を修した。
 1738年、本堂再建入仏、大法要を修する。
 1743年、快慶作という仁王像の修理を行う。開眼法要を修した。
 1746年、「鳴虎図」の表装を改装修理する。
 1748年、賓頭盧頗羅堕闍尊者の修理、開眼法要を修した。
 1788年、天明の大火により類焼する。
 1818年、客殿、玄関、内玄関が再建される。客殿(方丈)に本尊を安置する。
 現代、1979年、賓頭盧頗羅堕闍尊者の塗り替え修理をする。
◆円仁 平安時代前期の天台僧・円仁(えんにん、794-864)。男性。俗姓は壬生、諡号は慈覚大師。下野国(栃木県)の生まれ。9歳で大慈寺・広智に師事、808年、15歳で唐より帰国した比叡山の最澄に師事、最期まで14年間仕えた。815年、東大寺で具足戒を受ける。比叡山で12年の籠山行に入る。だが、5年後、法隆寺、四天王寺での夏安吾(げあんご、修行僧の集団生活による一定期間の修行)講師、東北への教化を行う。一時心身衰え、829年、横川に隠棲した。常坐三昧、法華経書写などの苦修練行を続け、夢中に霊薬を得て心身回復し、法華経書写を始め、小塔(如法堂)を建て写経を納めたという。首楞厳院(しゅりょうごんいん)を建立した。836年、837年、渡唐に失敗、838年、最後の遣唐使として渡る。その後、遣唐使一行から離れ、840年、五台山・大花厳寺を巡礼し、国清寺で学ぼうとしたが許可が下りなかった。長安・大興善寺で金剛界の灌頂を受け、青竜寺で胎蔵界灌頂、蘇悉地大法を授かる。また、悉曇(梵語)、止観(禅)も学んだ。山東半島、赤山新羅坊の新羅寺・赤山法華院で新羅仏教を学ぶ。現地では仏教弾圧(会昌の破仏)があり、日本と新羅はこの間に国交断絶していた。847年、帰国、仏典、金剛界曼荼羅など多数を持ち帰る。848年、比叡山に戻り、円珍に密教を教えた。横川中堂(根本観音堂)を建立する。854年、第3世・天台座主に就く。862年、東塔に天台密教の根本道場・総持院を建立した。『顕揚大戒論』、9年6カ月の唐滞在記である『入唐求法巡礼行記』(全4巻)を著す。東京・瀧泉寺、山形・立石寺、松島・瑞巌寺など多くの寺を開いた。入唐八家(最澄・空海など)の一人。71歳。
 没後、日本初の大師号(慈覚大師)を贈られた。
◆快慶 平安時代後期-鎌倉時代前期の仏師・快慶(かいけい、?-?)。詳細不明。男性。号は安阿弥(あんなみ)、法名は安阿弥陀仏。署名は仏師快慶、丹波講師(たんばこうじ)、越後法橋、巧匠安阿弥陀仏、法橋快慶、法眼快慶など。運慶の父・康慶の弟子、運慶の門弟ともいう。1183年、運慶が発願した法華経の結縁(けちえん)者の一人になる。1189年、 興福寺旧蔵・弥勒菩薩像(ボストン美術館蔵)、建久年間 (1190-1199) 、 東大寺復興の造仏に運慶を助けた。1192年/1194年頃、重源の建立した兵庫浄土寺・阿弥陀三尊像、1201年、東大寺・僧形八幡神像、1202年、東大寺俊乗堂・阿弥陀如来像、建仁年間(1201-1204)、東大寺公慶堂・地蔵菩薩像、奈良・文殊院・文殊五尊像(?)、1203年、運慶らと合作の代表作である東大寺南大門・金剛力士像などがある。1236年まで造仏した。
 慶派仏師であり、運慶と並び鎌倉時代を代表した。30点近くの作品、現存遺作は20点ある。作風は藤原様式、宋の新様式を取り入れた。写実的、優美で安阿弥様式と呼ばれ、後世まで影響を与えた。東大寺中興の重源(ちょうげん)に師事し、阿弥陀信仰し熱心な浄土教信者だった。
◆叡尊 鎌倉時代前期-後期の律宗の僧・叡尊(えいそん/えいぞん、1201-1290)。男性。睿尊、字は思円、諡号は興正菩薩。大和国(奈良県)の生まれ。父・興福寺の学侶・慶玄、母・藤原氏。幼くして母を亡くし、醍醐寺に入り真言を学ぶ、1217年、叡賢を師として出家した。1234年、戒律の復興を志す。1235年、円晴(えんせい)が東大寺で『四分律行事鈔』講じたのを聞く。1236年、東大寺で円晴、覚盛(かくじょう)、有厳らと自誓受戒し比丘になる。その後、大和海竜王寺に移る。1238年、西大寺に住み、再興した。1262年、鎌倉幕府の北条時頼・実時に招かれて鎌倉に下り、北条一族、御家人などに授戒した。1269年、般若寺で「非人供養」する。1281年、蒙古来襲時に、伊勢神宮、石清水八幡宮で異国降伏の祈祷も行う。著『梵網古迹文集』 (10巻) 、自叙伝『感身学正(かんじょうがくしょう)記』 (3巻) など。90歳。
 戒律の復興に努め、律宗中興の祖になる。「非人」を文殊菩薩の化身とし6万人に授戒した。「非人宿」を造り救済を行う。弟子の忍性(にんしょう)と救済事業にも尽くした。
 1286年、宇治川の網代破却による殺生禁断を実行し、勧進により宇治橋を再興し、浮島の十三石塔を建立した。宇治茶の栽培を奨め、漁民の転業のために、川で布を晒す曝布業を奨励した。
◆西蓮社慶誉上人一風明泉 室町時代の僧・西蓮社慶誉上人一風明泉(いっぷう-みょうせん、?-?)。詳細不明。慶誉、明泉。1501年 第104代・後柏原天皇により綸旨を贈られ、報恩寺を浄土宗として開山した。
◆仁舜尼 安土・桃山時代-江戸時代の仁舜尼(?-?)。詳細不明。女性。仁叔周孝。豊臣秀吉の侍尼。1602年、報恩寺門前の石橋を寄進する。
 報恩寺(上京区)に墓碑がある。
◆黒田 長政 室町時代後期-江戸時代前期の武将・黒田 長政(くろだ-ながまさ、1568-1623)。男性。通称は松寿(しょうじゅ、松寿丸)、吉兵衛。播磨(兵庫県)の生まれ。父・黒田孝高(よしたか、如水)、母・櫛橋伊定の娘の長男。1577年、父・孝高が織田信長に属し、長政は10歳で人質として信長の許に送られる。近江・長浜城の羽柴秀吉の許で少年期を過ごした。1580年、父の許に返された。1582年、秀吉の中国攻めに従軍し初陣になる。1583年、賤ケ岳の戦いに従う。その戦功により河内国丹北郡を得る。1584年、小牧・長久手の戦で、和泉・岸和田城に拠り、根来・雑賀一揆を撃退した。その功により加増を受けた。1587年、九州攻めで方面軍の軍奉行を務め、その功により豊前国に移る。1589年、父・孝高から家督を継ぎ、豊前中津に父の所領豊前6郡を得た。従五位下・甲斐守に叙任された。初め粕屋(かすや)郡名島に入り、那珂(なか)郡警固(けご)村福崎に城を築き、祖先発祥の地・備前福岡に因み「福岡」と名付けた。1590年、小田原攻め、1592年-1598年、文禄・慶長の役で渡海し、碧蹄館(ヘキテイカン)の戦、蔚山(ウルサン)城の戦で戦功をあげた。1598年、秀吉没後、父とともに石田三成に反対した。1600年、関ヶ原の戦で父とともに東軍・徳川家康に属した。小早川秀秋を寝返らせるなどした。その功により、筑前一国を与えられ福岡城を築く。筑前福岡藩主黒田家初代になる。1603年、家康の参内拝賀に供奉し、従四位下・筑前守に叙任される。1614年、大坂冬の陣で江戸城に留められた。1615年、夏の陣で徳川秀忠隊に属した。 1623年、徳川秀忠、家光が参内のために上洛、二条城に泊った。長政は江戸より入洛し、報恩寺に宿泊する。持病発作のため報恩寺客殿で亡くなる。56歳。
 墓は博多・崇福寺(福岡県)にある。
◆黒田 忠之 江戸時代前期の大名・黒田 忠之 (くろだ-ただゆき、1602-1654)。男性。幼名は万徳。父・黒田長政(ながまさ)の長男。1622年、久姫(2代将軍・徳川秀忠の幼女)と結婚した。1623年、筑前福岡藩主・黒田家2代になる。孝高(よしたか、如水)・長政の代からの譜代の功臣を退け、倉八十太夫らの側近を重用し、軍船鳳凰丸の建造、足軽隊の増強などょ行う。1632年、家老・栗山大膳、豊後府内藩主・竹中采女正は、忠之を謀反容疑で幕府に訴えた。一時領地没収になる。父祖の功により藩は存続した(黒田騒動)。福岡で亡くなったという。53歳。
 報恩寺(上京区)に墓碑がある。
◆阿部 正勝 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・阿部 正勝(あべ-まさかつ、1541-1600)。男性。通称は善九郎、善右衛門。 父・阿部正宣。徳川氏の家臣。歴戦し、1590年、鳩ヶ谷藩5000石大名。伊予守。60歳。
 報恩寺(上京区)に墓がある。
◆賀陽宮 江戸時代前期の皇女・賀陽宮(かやのみや、1666-1675)。詳細不明。女性。父・第111代・後西天皇の第7皇女、母は清閑寺共子。9歳。戒名は「桂徳院宮」。
 報恩寺(上京区)境内の西に賀陽宮墓がある。宝塔には碑銘「高嶽院殿心源榮芳大姉」とある。
◆仏像など ◈客殿(方丈)中央の仏間上段の間に「阿弥陀三尊像」3尺(90㎝)を安置する。鎌倉時代の快慶(安阿弥)作という。
 脇に「阿弥陀如来」「観世音菩薩」が立つ。
 ◈北宋の「木造釈迦如来諸尊仏龕(ぶつがん)」(重文)。
 ◈鎌倉時代の「厨子入 木造千体地蔵菩薩像 附厨子入木造大黒天像」(重文)。
 ◈室町時代作の「善導大師像」がある。
 ◈室町時代作の「法然上人像」がある。
 ◈南北朝時代の「厨子入 木造阿弥陀如来、両脇侍立像」(重文)。
 ◈左に阿形の「密迹金剛(みっしゃこんごう)」、右に吽形の「那羅延金剛(ならえんこんごう)の仁王像」が安置されている。室町時代初期作という。江戸時代中期、1730年に山門が焼失し、墓の中央に仁王尊が立っていたことから、「墓飛びの仁王尊」という。
 ◈「仏舎利涅槃像 厨子入」。
 ◈本堂(旧方丈)奥の厨子内に、長政の位牌「興雲院殿前大中大夫筑州都督古心道卜大居士」、如水の位牌「龍光院殿如水圓清居士」が祀られている。
◆建築 客殿に黒田長政が病死した「最期の部屋」がある。「上段の間」と呼ばれた。現在の建物は、江戸時代後期、1818年の再建による。かつて、帳台構(武者返し)があったという。一時は、長政を見舞った徳川家重臣も居た。
 現在は、阿弥陀如来坐像が安置され、長政、父・官兵衛(如水)の位牌が祀られている。
◆梵鐘 「梵鐘」(重文)は、室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)の東軍・畠山持国(1398-1455)が陣鐘に用いたという。豊臣秀吉も用いたという。金剛界四仏の梵字の銘が刻印されている。余韻残る美しい音色がする。
 平安時代後期作とされ 奈良時代以来の古式が残る。素文の銅鐘、高めの笠形、肩すぼまりの形、乳の形、八角素弁小形の撞座(つきざ)2個は上部の龍頭(りゅうず)と直交している。池の間4区に金剛界四仏を籠字(かごじ、肉太の書体)の梵字、その下に梵字で真言を刻む。高さ123.5㎝、口径73㎝。重さ1.5t。
 名鐘を記した『扶桑鐘名集』(岡崎盧門作、近代、明治期[1868-1912])にも記載されている。
◆撞くなの鐘 梵鐘は「撞くなの鐘」「撞かず(勿撞)の鐘」とも呼ばれている。
 梵鐘は、付近一帯の織屋で朝夕に時を知らせ、仕事の始まりと終わりの合図にされていた。寺近くの古い織屋「八半」に、15歳の丁稚と13歳の織女(おへこ)が働いていた。二人は日頃より仲が悪く、ある時、報恩寺の夕刻の鐘の数をめぐり口論になる。
 織女は9つ、丁稚は8つという。互いに負けた者は、何でもすると約束を交わした。丁稚は店を抜け、正解の9(108の12分の一)ではなく、8つ撞くことを知り合いの寺男に頼む。夕方、鐘は8つしか鳴らなかった。負けた織女は悔しさから鐘楼に帯をかけ首を吊る。
 以来、織女の霊が現れ、怨霊の祟りが鐘を撞いたという。店の主人は、織女を供養し菩提を弔った。以後、寺では朝夕に鐘を撞くのを止め、鐘楼には板堀を建て普段は誰も撞けないようにした。ただ、除夜と大法要に限り撞くようになったという。
 また、二人は、お十夜の晩に鐘が鳴るか鳴らぬかで口論し、鳴らなかったので織子が狂死したともいう。
◆鳴虎図 掛け軸「鳴虎図(なきとら-ず)」(縦1.6m、横1m)には、中国の画人・四明陶佾(しめい-とういつ)の署名が入る。宋(420-479)代、後世の明(1368-1644)代作ともいう。  
 室町時代後期、1501年に第104代・後柏原天皇(1464-1526)より報恩寺に贈られた。絵は中国東北の山岳地帯で、虎が谷川の水を飲む様を描いている。背後に松があり、2羽のカササギがとまる。虎の毛一本一本が緻密に描かれ、毛の色、長さ、向きも描き分けられ、立体的に見せる。見る位置により虎の姿が違って見える。右側から見ると頭部が大きく、胴体部が細長く、左側から見ると頭部が小さく、胴体、尾が三等分されて見える。
 豊臣秀吉(1537-1598)は寺を度々訪れていたという。報恩寺の住持が叔父だったためという。秀吉は虎図を大いに気に入り、聚楽第に持ち帰り床に掛けて観賞した。だが、夜になると鳴動し、吠え、また、歩き回り床がきしんだ。秀吉は眠れずに翌朝に返されたという。以来、絵は「鳴虎図」、寺は「鳴虎報恩寺」と呼ばれた。
 12年に一度、寅年の正月三が日に限り特別公開されている。近年、デジタル複製図が完成した。
◆庭園 枯山水式庭園、中庭がある。白砂に苔地、石組による。露地の前庭、坪庭がある。
◆小川 門前の石橋の欄干宝珠(複製)には、安土・桃山時代、「慶長七年(1602年)架橋」の刻銘がある。豊臣秀吉の侍尼・仁叔周孝首座が寄進した。かつて南北方向に小川(こがわ、百々川)が流れていた。
 現在、小川(おがわ)通という紫明通から錦小路通に通じた南北の通りがある。豊臣秀吉による地割で生まれた。かつて、通りに沿い「小川(こかわ/おがわ)」という細い川が南北に流れていたことから通り名が付けられた。小川は、堀川の一部だったという。北山、東山を源とする賀茂二股川であり、南流して一条で西に折れ更科川になり、堀川に合流していた。
 近代以降、琵琶湖疏水の完成により、1820年、疏水の水が小川にも通され、一条戻橋で堀川に注いぐようになったともいう。1945年、軍命令により高野川以西の疏水は埋め立てられる。現代、1963年、下水道整備工事の際に小川も暗渠化され、川は消滅した。
◆文化財  ◈室町時代後期、1501年、第代・後柏原天皇より贈られた勅額、仏舎利、浄土変相、千躰地蔵像、虎の図、興正菩薩の二十五条袈裟などがある。
  ◈安土・桃山時代、1588年、第107代・後陽成天皇より伽藍完成祝賀の消息、六字名号を贈られる。
 ほかに、第111代・後西院天皇宸翰、有栖川の宮、華頂宮の写経、名号などがある。
  ◈安土・桃山時代、1585年、豊臣秀吉により現在地に移った際の下知状がある。
  ◈黒田官兵衛の戒名「龍光院殿如水圓清居士」・長政の戒名「興雲院殿前大中 大夫筑前都督古心心導卜大居士」が刻まれた、父子の総金箔の位牌が客殿に並んで祀られている。
 織田信長の肖像画、豊臣秀吉の肖像画がある。
  ◈報恩寺には、浄住寺(西京区)より移されたという舎利、銅灯などがある。報恩寺は浄住寺を前身とするともいう。
 ◈東門前の石橋架橋時の「擬宝珠」2つが客殿に保存されている。安土・桃山時代、「慶長七(1602年)壬寅暦八月十八日」と刻まれている。
◆黒田長政・報恩寺 江戸時代前期、1623年旧7月に、2代将軍・徳川秀忠(1579-1632)は子・家光(1604-1651)に将軍職を譲るため上洛し、二条城に宿した。
 黒田長政(1568-1623)は、嫡男・忠之(1602-1654)を伴い江戸を発ち、東山道、大垣城・岐阜城、関ヶ原の戦場跡をめぐり、筑前に戻ろうとしていた。長政は50歳を過ぎた頃より胸痛を患い、膈噎(かくいつ、胃癌)も併発し、領国での療養を考えていた。
 長政は途中で、家光の将軍就任式典があると知り、参列のために入洛し報恩寺に宿した。長政の病状は芳しくなく、京都の医者・半井通仙(?-?)の薬を服用し、大坂の医者・古林見宜(1579-1657)も往診した。秀忠・家光も度々長政の許に使者を遣わして見舞った。旧8月4日に、長政は方丈上段の間で亡くなる。
 遺骸は筑前に移され、火葬に付され崇福寺(福岡市)の父・如水(孝高、1546-1604)の西隣に葬られた。 
◆石橋 報恩寺門前に石橋が架かる。安土・桃山時代、1602年に秀吉の侍尼・仁舜尼が寄進した。京都市内に現存する古い石橋の一つになる。擬宝殊6個のうち2個が現存する。勾欄付。
◆射場町 寺のある射場町(いば-ちょう)とは、足利時代に弓の練習の場があり、地名の由来になった。
◆花暦 桜が植えられている。
◆墓 ◈侍尼・仁舜尼(侍尼・仁叔周孝尼)の墓碑(五輪塔)がある。
 ◈廟に大坂城城代・備後国福山藩祖・阿部正勝の墓碑がある。その父・阿部正宣、子・阿部正次?、阿部忠吉?、弟?も葬られたという。
 ◈能の歴代の観世流家元(4世-22世)、志野流香道家、元蜂谷家の菩提寺になる。
 ◈境内の西に第111代・後西天皇の第7皇女・賀陽宮墓がある。
◆年間行事 除夜の鐘(23:45より第1打と108回目は住職が撞く。後は参拝が先着順で撞ける。)(12月31日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*普段は非公開、室内は撮影禁止
*参考文献・資料 報恩寺縁起、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都大事典』、『京都歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都戦国武将の寺をゆく』、『京の寺 不思議見聞録』、『京の怪談と七不思議』 、『京の冬の旅 2022 -別冊旅の手帖』、ウェブサイト「ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)」、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺二条城(元離宮二条城)  関連・周辺小川通・百々ノ辻・百々橋  関連・周辺昭和十年水害浸水被害記念碑  周辺  関連浄住寺  関連観世稲荷社  関連竜光院(龍光院)〔大徳寺〕   関連山崎合戦古戦場跡(大山崎町)    50音索引,Japanese alphabetical order 
報恩寺 〒602-0066 京都市上京区射場町579,小川町寺之内下ル西側   075-414-1550
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