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三条東殿跡・平治の乱勃発地 (京都市中京区) Site of the residence of Sanjo-higashidono(Palace) |
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三条東殿跡・平治の乱勃発地 | 三条東殿跡・平治の乱勃発地 | ||||||||||
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![]() 「三条東殿遺址」の碑、新風館北側 ![]() 【参照】平安時代の三条東殿の復元図(京都市平安京創生館、展示パネルより) 平治の乱の主な登場人物
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烏丸通から三条通東入ル北側脇に「三条東殿遺址(さんじょう-ひがしどの-いせき)」の碑が立てられている。この地は、平治の乱の勃発地になっている。
この付近は、平安時代、平安京の平安左京三条三坊十三町に当たり、白河法皇の院御所が存在した。 ◆歴史年表 平安時代、11世紀(1001-1100)初頭、この地には伊豫守・藤原済家(1143-1187)の邸宅があった。 子孫の宮内卿・藤原家通(1056-1116)に伝えられる。 1125年、白河法皇(第72代)は殿舎を造営し、院の御所とした。 1129年、法皇没後 鳥羽上皇(第74代)は院の御所とし、后・待賢門院と共に住した。 1132年、鳥羽上皇の院御所は焼亡する。 12世紀(1101-1200)中期、後白河法皇(第77代、1127-1192)の院御所となる。 1159年、12月9日、平治の乱で、源義朝の軍は三条東殿を襲撃、後白河法皇を連れ出し幽閉した。院御所は焼失する。(『平治物語絵詞』) ◆藤原済家 平安時代後期-鎌倉時代後期の貴族・藤原済家(ふじわら-の-なりとき、?-?)。詳細不明。男性。父・信時。藤原北家・山蔭流。伊豫守、1009年、陸奥守。1284年、叙従三位。1294年、出家。正三位・非参議。 ◆藤原家通 平安時代後期-鎌倉時代前期の貴族・藤原家通(ふじわら-の-いえみち、1143-1187)。男性。六角中納言。大納言・藤原重通と大納言源師頼の娘の子。実父は中納言・藤原忠基、母は重通の家女房藤原有広の娘。左兵衛佐、左少将、右中将、蔵人頭、1166年、参議、右兵衛督・左兵衛督を兼ね、1183年、権中納言、右衛門督、使庁別当、左衛門督を兼任した。日記『角金記』がある。 45歳。 ◆後白河天皇 平安時代後期-鎌倉時代前期の第77代・後白河天皇(ごしらかわ-てんのう、1127-1192)。男性。名は雅仁、法名は行真。父・第74代・鳥羽天皇の第4皇子。1155年、異母弟の第76代・近衛天皇の死により即位する。1156年、保元の乱、1159年、平治の乱後、源平対立の中で王力を維持した。1158年、第78代・二条天皇に譲位し、六条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の5代の歴代天皇に対して30年に渡り院政をしく。1169年、出家する。1170年、東大寺で改めて受戒した。 1179年、平清盛の謀反により、院政を止め鳥羽殿に幽閉の身となる。1181年、高倉上皇没後、院政を再開する。1183年、法住寺合戦では、木曾義仲が法住寺殿を襲撃し、後白河法皇と後鳥羽天皇は幽閉されている。『梁塵秘抄口伝集』(1169)を撰した。没後、法住寺法華堂に葬られる。66歳。 ◆三条東殿 三条東殿は、現在の三条烏丸の東北に位置し、方40丈(120m)の広さを占めていた。「東三条内裏」、「三条東洞院御所」、「三条東御所」とも呼ばれた。 伊豫守・藤原済家の邸宅は、子孫の宮内卿・藤原家通、さらに、白河法皇、鳥羽上皇の御所、皇子・後白河法皇の院の御所となった。平安時代後期、1159年に平治の乱の舞台の一つになる。 ◆平治の乱 平安時代後期、1156年の保元の乱後、勝利した後白河天皇は退位し院政を敷く。側近・信西(藤原通憲)は権勢をふるう。引き続く、1159年の平治の乱では、信西と藤原信頼の確執に、源平の平清盛と源義朝の対立も絡んだ。 1159年、12月4日、平清盛は一族郎党とともに熊野詣に出かけている。この隙に、信西に不満を持つ公卿の上皇院政派(後白河派)、天皇親政派(二条派)は結託した。藤原信頼、二条天皇外戚・藤原経宗、二条天皇側近・藤原惟方らによる。 12月9日深夜、反信西派の源義朝の軍500は、院御所の三条東殿を夜襲した。後白河上皇、上西門院(上皇同母姉)は内裏に連行され、一本御書所で軟禁されたという。院御所には火が放たれた。大江家仲、平康忠、官人、女房も犠牲になる。火焔に攻められた多数の官女は井戸に身投げしたという。信西と一門は、三条東殿より辛くも山城国田原に逃れたものの自害した。その首は掘り起こされ、京都に戻され獄門に晒された。 12月14日、藤原信頼は実権を握り、宮中で自ら除目(諸官職を任命する 朝廷儀式)を行う。源義朝は播摩守、その子・源頼朝は右兵衛佐に任じる。12月17日、平清盛は紀伊の武士の応援を得て六波羅に戻る。藤原信頼を油断させるために、降伏の名簿(みょうぶ)を差し出した。12月25日、丑の刻(午前2時)、平清盛と密かに通じた藤原経宗、藤原惟方は二条天皇を六波羅に逃す。後白河上皇は仁和寺に逃れる。12月26日、平重盛の500騎、平頼盛は内裏の東側より攻める。平重盛は、源義平の17騎と陽明門で戦う。平頼盛は、源義明と郁芳門で戦う。さらに、平氏の別動隊200騎が北上し、西より内裏を攻めて制圧した。 源義朝、子・義平は、やむなく平清盛の六波羅邸を攻めるためにわずか20騎で五条坊門小路を東行する。六波羅邸より平清盛も向かい、平氏方に寝返った頼政が、鴨川六条河原の西岸で源義朝らを迎え討つ。鴨川の両岸で初の源平合戦が繰り広げられた。源義朝軍は敗れ、東国に敗走する。藤原信頼は六条河原の合戦より仁和寺に逃れ、後白河上皇に命乞いするが斬首された。 12月29日、二条天皇は八条の養母・美福門院の邸に移る。1160年、1月3日、源義朝は東国に逃れる途中の尾張で自害した。1月6日、後白河上皇は、八条堀川の藤原顕長邸に移る。藤原経宗、藤原惟方による後白河上皇への愚弄があったとされ、両人は清盛に捕らえられ内裏の上皇の前で拷問を受けた。2月21日、藤原経宗、藤原惟方は解官される。3月11日、藤原経宗は阿波に配流、藤原惟方は長門に配流になる。源頼朝は伊豆に配流される。 6月20日、平清盛は公卿に昇る。8月11日、平清盛は参議に昇る。この時、平治の乱に関わった上皇院政派(後白河派)、天皇親政派(二条派)の公卿すべてが一掃されていた。源氏は敗北し、平氏の政権が成立する。後白河上皇と提携した平清盛にとって権勢と栄華の序章になる。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 古代学協会の碑文、『京都大事典』、『京都時代MAP 平安京編』、京都市平安京創生館、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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