法雲寺・法興院跡・菊野尊天(菊野大明神) (京都市中京区)
Houn-ji Temple
法雲寺 法雲寺 
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山門


「福寿観世音菩薩 清水山」の石標


本堂


本堂、獅子


本堂、金剛力士像


本堂、鬼瓦


庫裏


菊野尊天
 河原町通より東へ、細い参道が山門まで延びている。高層建物に囲まれた地に法雲寺(ほううんじ)がある。清水山洗心院と号する。 
 平安時代、この地には公卿・藤原兼家の邸があり、その没後に法興院(ほうこういん)に改められた。境内の一角に菊野尊天(きくのそんてん、菊野大明神)が祀られている。
 単立、本尊は阿弥陀如来像。
 縁切り、良縁招福の篤い信仰を集めている。
◆歴史年表 平安時代、988年、この地(現在の清水町、指物町付近)には、藤原兼家(ふじわら の かねいえ)の邸宅(二条院、二条京極邸)があった。(『日本紀略』『坊目誌』)
 990年、兼家の出家後、法名により法興院(ほこいん/ほこのいん)に改められる。(『百錬抄』『栄花物語』『枕草子』)。兼家は、その2カ月後に亡くなる。
 992年、院内に積善寺(しゃくぜんじ)を建立する。(『栄花物語』)
 1010年、院内で右京権大夫・親兼王が賊に殺される。(『小記目録』『御堂関白記』)
 1011年、焼失する。(『御堂関白記』)
 1013年、再建された。(『御堂関白記』)
 1027年、焼失した。(『日本紀略』)
 1096年、再建された。(『中右記』)
 1120年、焼失する。(『百錬鈔』)
 1148年、焼失した。(『台記』)
 1166年、覚性快法親王が別当に補任される。(『華頂要略』)
 1181年、慈円が別当に補任される。
 鎌倉時代、1213年、慈円は当院、諸領などを朝仁親王に譲る。(『華頂要略』)
 その後、法興院は廃絶する。
 中世末(室町時代)、この地には池泉のみが残されたという。後に、この清涼な池水が清水町の町名由来になる。
 安土・桃山時代、1567年、源蓮社清善がこの地に草庵を結ぶ。法雲寺の前身になる。(寺伝)
 江戸時代、1615年、清久が堂宇を建立した。(寺伝)
 1788年、天明の大火で全焼した。(寺伝)
 1818年、現在の本堂が再建された。
 1863年、八月一八日の政変後、長州藩士・久坂玄瑞(1840-1864)が当寺を拠点にしていた。
 現代、1988年、菊間尊天の祠が改装される。
◆藤原兼家 平安時代中期の公卿・藤原兼家(ふじわら の かねいえ、929-990)。父は右大臣師輔、母は藤原経邦の娘・盛子。978年、右大臣。986年、寛和の変で第65代・花山天皇の退位、山科・元慶寺での出家を謀り、第64代・円融天皇女御の娘・詮子の子・東宮懐仁親王即位(後の第66代・一条天皇)を実現させる。摂政、氏長者となる。直後に右大臣を辞した。東宮に娘・超子の子・冷泉天皇皇子の居貞親王(第67代・三条天皇)がなる。子・道長の時、全盛期を迎える。989年、太政大臣、990年、関白になり出家した。豪邸の東三条第、二条京極第を営む。時姫、道綱の母など9人の妻がいた。東三条院、法興院と称された。
◆親兼王 平安時代の親兼王(?-1010)。詳細不明。1003年、伊勢臨時奉幣使の使王を勤仕。伊勢権守、右京權大夫。1010年5月11日、法興院内で賊により殺害される。(『小記目録』『御堂關白記』)
◆覚快法親王 平安時代後期の天台宗の僧・覚快法親王(かくかい ほっしんのう、1134-1181)。父は第74代・鳥羽天皇。母は美濃局(石清水八幡宮祀官家・田中勝清の実妹)。13歳で比叡山に上り、行玄大僧正に師事して出家、顕教・密教を兼学した。1150年、権律師、1151年、行玄により伝法灌頂を受ける。法印に任じられた。1160年、宮中で日蝕の祈祷を行い効験があったという。1170年、無品親王、1177年、延暦寺座主に就任、法性寺座主も兼任した。病いにより、1180年、青蓮院に隠退し、翌年亡くなる。
◆慈円 鎌倉時代初期の天台宗の僧・慈円(じえん、1155-1225)。慈鎮。父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光の娘。1165年、11歳で延暦寺、その後、青蓮院・覚快法親王の下で出家した。1192年、天台座主となり、都合4度務めた。1203年、大僧正、第82代・後鳥羽上皇の護持僧となった。史書・史論書の『愚管抄』を著した。歌人として知られる。親鸞は、1181年、9歳の時に伯父の日野範綱に伴われ青蓮院を訪れ、慈円のもとで得度している。
◆道覚法親王 鎌倉時代前期-中期の天台宗の僧・道覚法親王(どうかく ほっしんのう、1204-1250)。道覚入道親王。父は後鳥羽天皇、母は尾張局。1208年、親王宣下を受けて朝仁と称した。1216年、出家し慈円・慈賢・真性などに天台教学を学ぶ。1247年、天台座主、1248年、青蓮院門跡を継ぐ。
◆然誉清善 安土・桃山時代の浄土宗の僧・然誉清善(ねんよ せいぜん、生没年不詳)。詳細不明。源蓮社清善。筑後・久留米の善導寺の僧、1556年、京都・善導寺を開山する。1567年、京都・法雲寺の前身となる草庵を結ぶ。
◆菊野尊天 境内東に菊野尊天(菊野大明神)がある。かつて、三条東洞院にあったという。祠には、縁切りと良縁を結ぶ効験ある石(菊野さん、きくの石)が祀られている。悪縁を絶つには、水を供え灯明をあげて堂の周りを廻る。
 さまざまな伝承がある。平安時代、第52代・嵯峨天皇の頃(在位809-823)、宇治に公家の娘がいた。夫に棄てられ、貴船明神に丑の刻参りをした。7日目の満願の日に貴船明神が現われた。娘が鬼になりたいのであれば、宇治川に37日間浸かるようにと告げる。娘がその通りにすると鬼と化した。鬼は、元夫と相手の女、親類縁者までも殺めた。娘は橋姫と呼ばれ、宇治より貴船明神に参る途中で、腰掛けて休んだ石がこの神体石とされる。
 また、平安時代前期の絶世の美女・小野小町に恋焦がれ、通い詰めた深草少将が腰掛けて休んだ石ともいう。少将は、百夜通いの満願の一夜を残して絶命する。少将の成就できなかった思いが石に込められ、男女の仲を引き裂くともいう。
 かつて、曇華院旧地(中京区三条東洞院)付近にこの石があったという。婚礼の儀がその前を通ると、後に必ずその夫婦は別れたという。そのため、婚礼の行列は石を避けて通った。近代、1872年に曇華院が嵯峨に移った際に、石は当寺に遷されたという。
 江戸時代、1788年の天明の大火で法雲寺が全焼し、15年後に再建された。その時、山伏が寺に現れ「霊石」のことを尋ねた。当時の18世・賢誉が境内を探すと、「縁切り石」と伝えられる石が出てきた。山伏は石前で法楽を行い、石を東庭に西向きに安置するようにと告げた。祭礼は3月16日とし、毎月16日に祀ると、悪縁に苦しむ人は良縁に恵まれるという。住持はその縁起を山伏に尋ねようとした。だが、姿はすでになかったという。その時の石を祀るものという。
◆法興院遺構 本堂西に古い井泉があり、法興院の遺構とされた。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都市の地名』『京都 歴史案内』『京都のご利益徹底ガイド』『京のしあわせめぐり55』


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菊野尊天、菊野大明神を祀る。

菊野尊天

菊野尊天

豊川稲荷社、豊川稲荷大明神

豊川稲荷社

清水」の歌碑

宝篋印塔
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 法雲寺・法興院跡 〒604-0911 京都市中京区清水町30,河原町通二条上る   075-241-2331
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