報土寺 (京都市上京区)
Hodo-ji Temple
報土寺  報土寺
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表門




表門、鬼瓦


表門


本堂


遊女観世音菩薩(遊女観音)






地蔵堂


地蔵堂、扁額に「生駒楼」とある。



腹帯地蔵



鎮守社、八幡宮、光吉稲荷大明神
 仁和寺街道沿いに報土寺(ほうどじ)はある。山号は八幡山(はちまんさん)という。
 白壁の高い築地塀に囲われ、薬医門を堅く閉じている。界隈の西陣の四番町、隣接する五番町は、かつて遊郭として栄えた。引き取り手のない遊女遺骸を弔っていたことから「投げ込み寺」と呼ばれていた。 
 浄土宗知恩院派。本尊は阿弥陀如来像。
 洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の札所、札所本尊は腹帯地蔵。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、859年、貞観年間(859-877)とも、行教(ぎょうきょう)が真言宗の寺として創建したという。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により荒廃する。
 1559年、選誉照阿(せんよ しょうあ)により、浄土宗の寺院として再興された。相国寺惣門の東南(上京区)に移る。以後、浄土宗の念仏道場として栄えた。
 江戸時代初期、黒田官兵衛(孝高、如水)の妻・光姫(てるひめ、戒名・照福院殿念誉浩永大禅定尼)が、当寺の塔頭・照福院(しょうふくいん)を建立した。寺域に茶室「松陽亭」が建てられ、夫、豊臣秀吉、石田三成も当寺を訪れたという。(過去帳)。
 1627年、光姫の没後、塔頭・照福院に墓が立てられる。
 1663年頃、現在地(上京区)に移転する。塔頭・照福院は本寺に統合された。
 寛文年間(1661-1673)、腹帯地蔵は第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。  
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈以後、塔頭2院が廃された。境内も狭められる。境内には一時、仁和小学校が置かれたという。
◆行教 平安時代前期の僧・行教(ぎょうきょう、生没年不詳)。山城守・紀魚弼の子。行表、真言宗の宗叡に師事する。858年、真雅の推挙により、藤原良房の外孫・惟仁親王(第56代・清和天皇)の即位祈祷のため、859年、藤原良房の命により、宇佐八幡宮(宇佐神宮)で天皇護持の90日間参籠をした。平安京の近くに遷座せよとの託宣により、860年、宇佐神宮から男山・護国寺に八幡大菩薩を勧請し、石清水八幡宮を創建した。863年、伝灯大法師位に任じられた。
◆選誉照阿 室町時代の浄土宗の僧・選誉照阿(せんよ しょうあ、生没年不詳)。詳細不明。1559年、報土寺を再興した。
◆櫛橋光 室町時代-江戸時代初期の女性・櫛橋光(くしはし てる/みつ、1553-1627)。櫛橋照。播磨国加古川の志方城主・櫛橋伊定(これさだ)の次女。1567年、小寺政職の養女になる。15歳で、小寺家家老・黒田孝高(官兵衛)の正妻として嫁ぎ、姫路城に入る。才徳兼備であり、当時としては珍しい一夫一妻の夫婦になる。1568年、松寿丸(後の福岡藩主・長政)、1582年、熊之助を産む。当初、夫・孝高は、織田信長を高く評価し、主君・小寺政職に臣従を進言する。1578年、播磨国・別所長治が信長に叛き、志方城の兄・櫛橋政伊も呼応した。志方城は織田信雄方に包囲され降伏した。孝高は有岡城に幽閉され、信長は人質の松寿丸の殺害を秀吉に命じた。孝高の盟友・竹中半兵衛により松寿丸は匿われ助かる。後、孝高は豊臣秀吉の腹心になり、豊前国中津の大名になる。光は大坂に質として置かれた。1597年、熊之助は、父・兄を追い朝鮮に渡る途中、玄界灘で暴風雨に遭い亡くなる。1600年、関ヶ原の戦いの直前、石田三成は大坂の大名妻子を人質として大坂城に移そうとした。細川忠興の妻・細川ガラシャは抗して自害した。その隙に孝高の家臣は、長政正室・栄姫、光らを長柄の屋敷より救う。菰に包まれ米俵に似せて担ぎ出され、中津城へ船で脱出させた。1604年、夫没後に出家、菩提のために圓應寺(福岡)を建立した。京都に報土寺の塔頭・照福院を建立する。熱心な浄土宗の信徒だった。
 墓は、報土寺、崇福寺(福岡)、圓應寺(福岡)にある。肖像も伝わる。
◆仏像 ◈美仏の「阿弥陀如来立像」(79.2㎝)(重文)は、鎌倉時代、「正嘉二年(1258年)七月十二日」の銘が左足臍(ほぞ)にある。かつて、近江の八幡宮に安置されていたという。近代、1942年に、旧国宝に指定された、当時の恩賜京都博物館に寄託された。上品下生印を結ぶ。鎌倉時代の快慶(生没年不詳)が創出した安阿弥様(あんなみょう)と呼ばれる三尺阿弥陀如来の基準作とされた。木造、漆箔、玉眼。現在は、京都国立博物館寄託。
 ◈本堂に鎌倉時代作の「地蔵菩薩」が安置されている。
 ◈ほかにも諸仏があり、廃寺になった旧塔頭の遺仏という。
◆阿弥陀如来立像 本尊の阿弥陀如来立像には伝承が残る。かつて、近江の八幡宮に安置されていたという。
 ある時、住職の夢に阿弥陀如来が現れ、東より手招きした。住職がその方に進むと、近江八幡に行き着く。土中が光り輝き、阿弥陀如来が出現した。阿弥陀如来は報土寺に遷ることを望み、当寺に遷されたという。(縁起絵巻)
◆腹帯地蔵 地蔵堂に、「腹帯地蔵」(2m)が安置されている。妓楼「生駒楼」の寄進による。江戸時代前期、洛陽四十八願地蔵の一つに数えられた。かつては、腹帯を授与していた。彩色。
 扁額には「腹帯地蔵」、「生駒楼」の銘がある。
◆建築 ◈「表門」(重文)は、本堂と同時代の創建とみられている。現在、建物の傷みが激しいため普段は閉じられている。一間、薬医門。2.7m、4.6m。
 ◈「本堂」(重文)は、江戸時代初期、1794年(1629年とも)に建立された。寺地移転に際し移築された。全体の骨組みは太い。浄土宗本堂建築の典型とされている。かつて、四周に縁を廻し、内陣に板蔀戸があった。現在は金具だけが残る。7間6間、一重、入母屋造、向拝3間、本瓦葺。舟肘木。
◆遊女観音 本堂前に、「遊女観世音菩薩(遊女観音)」といわれる観音像が立つ。
 かつて、周辺の廓で亡くなった遊女たちの骸をどの寺も取り合わなかったという。寺では遺骸を引き取り、仮安置し、弔い、共同墓に葬ってきた。このため、「投げ込み寺」と呼ばれていた。
 以前は、境内東に離れが建てられていた。ただならない気配が漂い、先代の住職が調べてみた。建物は遊女たちの遺体安置所だったと分かる。その後、離れは解体される。だが、周囲に不幸が続いたという。
 近年になり観音像が祀られ供養されることになったという。
◆四番町・五番町 平安時代、四番町は平安京大内裏の大蔵省、大歌所の跡地だった。安土・桃山時代、1587年、豊臣秀吉の聚楽第築城の際に、荒野になっていた内野が再開発された。一帯は武家地として整備される。その後、1595年の聚楽第破却とともに再び荒廃した。
 街道筋は北野神社、愛宕神社の参詣路に当たっていた。江戸時代、享保年間(1716-1736)に、これらの参拝客を相手にして茶屋が建ち並ぶようになる。1767年に四番町の三ッ石町、1798年に西蓮町が茶屋営業を許可されている。1859年、上七軒より五番町への出店営業が免許され、その後恒常化した。近代以降、1870年に府が管轄し、1874年に女紅場ができた。だが、遊女教化は成功せず、東部は芸妓、西部は娼妓街になる。一帯は、太平洋戦争後も遊郭として存続した。1949年、「北新地」、その後「西陣新地」と名称を変えたが定着はしなかった。1958年の売春防止法施行以後、遊郭は廃され衰退する。
 現代の作家・水上勉(1919-2004)の小説『五番町夕霧楼』(1962)では、戦後の五番町が舞台になっている。丹後から身売りされてきた少女は、売れっ妓になるがやがて肺病を患う。京都に出た幼馴染の学僧と恋仲になる。若い僧は、寺の現実に幻滅し、寺に火を放ち留置所で自害した。その報を知った少女は病院を抜け故郷に帰るものの、僧の跡を追い服毒自殺する。小僧経験のある水上は、1950年の学僧による金閣寺放火事件を下地にして悲愛を書いた。
◆墓 黒田孝高(官兵衛)の正妻・櫛橋光の墓がある。かつて、塔頭・照福院にあった。


*拝観は事前要予約。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の門』『京都市の地名』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中』『京都の寺社505を歩く 上』『第53回 京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』『旧版 京のお地蔵さん』、サイト「照福山 顕光院圓應寺」


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八幡宮、光吉稲荷大明神

八幡宮、光吉稲荷大明神

井戸跡、

井戸跡

井戸跡、「照福院」と刻まれている。
 

「黒田長政公 御母堂之墓(櫛橋光)」の石標

櫛橋光の墓
  報土寺 〒602-8347 京都市上京区四番町120,仁和寺街道六軒町西入る  075-462-1243 
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