永興寺 (京都市山科区) 
Yoko-ji Temple
永興寺 永興寺 
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home

「曹洞 永興寺」石標


「承陽大師御霊場」石標







慈母観音




















本堂






南無の子
 山科御陵の山科疏水から上がった山腹に、永興寺(ようこうじ)がある。 
 日本曹洞宗開祖・道元ゆかりの寺になっている。山号は無量山。
 曹洞宗。
◆歴史年表 鎌倉時代、1252年、8月28日、道元は俗弟子・覚念の屋敷(高辻西洞院)で亡くなる。同日、東山赤辻で荼毘に付される。9月6日、遺骨は懐奘により永平寺に持ち帰られた。
 1254年、道元弟子・詮慧は、道元荼毘の跡地に永興庵(ようこうあん)を建立し、道元の等身大木像を安置した。(『高台寺旧記』)。庵号は、越前・永平寺と深草・興聖寺の二寺から二字を取り永興庵としたという。
 大智(1270-1366)が訪れた頃、すでに寺観は保たれていなかった。(『大智禅師偈頌』)
 その後、比叡山徒の焼き討ちに遭い、永興庵は各所を転々とした。
 1325年頃、永興庵は廃絶する。
 江戸時代、1748年、面山瑞方は粟田青蓮寺近くに永興庵を結ぶ。豊後の参禅者などが廃菴を買い取り休息所にしたという。面山は永平寺と興聖寺を慕い、二寺から名前を取り永興庵としたという。(『面山広録』、「永興菴再興の偈並序」)
 近代、1872年、永興庵は廃寺になる。
 1905年、村上素道が鹿ヶ谷(獅谷)高原の自炊林に承陽大師御霊場を開く。
 1919年、永平寺に進言し、自炊林を永平寺別院とし、山科御陵の現在地に移転した。
 現代、1984年、福寿院より土地譲渡を受け永興寺と称した。
 1996年、本堂、山門が再建された。
◆道元 鎌倉時代前期-中期の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。俗姓は源氏、号は希玄(きげん)、道玄、字は仏法房、諡号は仏性伝東国師、承陽大師。京都の生まれ。父は内大臣・源(土御門)通親/通親の子・通具(みちとも)、母は太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘という。その後、久我の地に引き取られたとみられる。1203年、父を亡くす。1207年、母を亡くした。1208年、叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺・良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもとで菩薩戒を受ける。天台宗で、衆生は仏性を具えているのにもかかわらず、既に仏である者が修行し続ける理由が解けず、1214年、比叡山を下りる。園城寺の母方縁者・公胤(こういん、47世長吏)の門を敲く。公胤の勧めにより、1217年、臨済宗の建仁寺に移り、栄西(相見していないとも)、その高弟・明全に学び臨済の印可を受けた。1223年、師・明全と共に宋に渡る。天童山・景徳寺で無際了派に学ぶ。1224年、育王山・広利寺、径山(きんざん)・万寿寺、天台山・万年寺などを歴訪した。1225年、明全が亡くなる。天童山で曹洞宗・長翁(天童)如浄(にょじょう)に師事し、曹洞禅を学び印可を受けた。1227年、如浄の法統を得て帰国する。1228年、建仁寺に入る。日本初の坐禅儀『普勧坐禅儀』を著す。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受け、1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草・極楽寺に修行道場の観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。天台宗の圧力はやまず、1243年、檀越・波多野義重の領地である越前の志比荘(しびのしょう)に逃れる。1244年、義重の請により、越前に大仏寺(後の永平寺)を開いた。1247年、鎌倉幕府執権・北条時頼に請われ下向した。1252年、病になり、1253年、後事を弟子・孤雲懐奘(こうん-えじょう)に譲り、京都西洞院高辻の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。54歳。遺骸は東山・赤辻で荼毘に付され、遺骨は永平寺に埋葬された。
 日本曹洞宗の開祖。道元は、自己に本来具わる仏法は修行によって初めて現れ成就する(身心脱落)とした。無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが最高の修行とする「只管打坐(しかんたざ)」などを唱えた。6篇の禅院での修道規則「永平清規」も定めた。仏法の正門は座禅にあるとした『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 』95巻(1230-1252)を著した。門弟には、懐奘、詮慧(せんね)、僧海(そうかい)らがいる。
 1854年、第121代・孝明天皇より諡号の仏性伝東国師、1879年、第122代・明治天皇より承陽(じょうよう)大師を贈られた。
詮慧 鎌倉時代の曹洞宗の僧・詮慧(せんね/せんえ、?-?)。近江(滋賀県)の生まれ。比叡山横川で学僧になり、顕密に通じた。宋から帰国した道元の弟子になり、首座、侍者になる。1254年、道元荼毘の地に留まり永興庵を建てる。『正法眼蔵』の最初の注釈書「正法眼蔵抄御聴書」をあらわす。
◆大智 鎌倉時代後期-南北朝時代の曹洞宗の僧・大智(だいち、1290-1367)。肥後国(熊本県)に生まれた。1314年、元に渡る。加賀国・祇陀寺、肥後国・聖護寺、菊池氏の帰依を受けて広福寺を創建した。
 荒廃した永興寺を詠んだ七言絶句。「空堂にただ見る緑苔の封ずることを、法席人の祖宗を補うなし、満樹の落花春過ぎて後、杜鵑血に啼き夕日紅なり。」(『大智禅師偈頌』、「永興の開山塔に礼す」)
◆面山瑞方 江戸時代前期-中期の学僧・面山瑞方(めんざん-ずいほう、1683-1769)。肥後国(熊本県)に生まれた。卍山道白に参じた。禅定寺、空印寺に住した。永興庵を復興する。『正法眼蔵渉典録和語鈔』などを著す。
◆村上素道 近現代の僧・村上素道(1875-1964)。詳細不明。1905年、鹿ヶ谷高原に曹洞宗の承陽大師御霊場を開く。1942年、大智が創建した鳳儀山聖護寺(菊池市)を再興した。編著に『蓮月尼全集』、著『栂尾山高山寺明恵上人』など。
◆摂末社 山科豊川稲荷社に豊川だ枳尼天(だきにてん)を祀る。愛知県豊川稲荷社よりの分霊された。
 かつて、円山公園音楽堂の南東に祀られていたという。女神様は、福徳の神・開運隆盛の神、興産の神になる。祭礼は春秋山科豊川稲荷大祭がある。
◆文化財 本堂に現代の日本画家・安藤康行作「大間天井龍図」が描かれている。
 本堂に日本一大きな木魚(直径90㎝、高さ95㎝)があり、楠の一木造による。
 道元禅師の「御一代記絵巻」。
 境内の庭に石の龍尻尾があり、本堂に描かれた天井龍図の尾という。
◆年間行事 山科豊川稲荷の正月特別祈祷会・甘酒の会( 1月1日-3日)、春彼岸会法要、盂蘭盆会法要、秋彼岸会法要、除夜の鐘つき会(12月31日)。
 参禅会(毎月第3日曜日)。春秋山科豊川稲荷大祭。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『京都・宗祖の旅 道元』、『京都 道元禅師を歩く』、『日本の名僧』 、『山科事典』、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺  周辺,surrounding area旧鶴巻鶴一邸(栗原邸)  周辺,surrounding area琵琶湖疏水・岡崎公園・鴨川運河  周辺,surrounding area琵琶湖疏水(山科疏水)第11号橋・第10号橋  関連道元禅師示寂の地  関連道元荼毘の地・曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺蹟之塔  関連興聖寺(宇治市)    

作務の子


参禅道場

鐘楼

山科豊川稲荷社

山科豊川稲荷社 

山科豊川稲荷社

龍尾の石


詮慧の墓

歴代の墓

境内の杉の巨木

【参照】小橋(太鼓橋、黒岩橋、第10号橋)を渡り境内に向かう。

【参照】山科疏水(琵琶湖疏水)
 
 
永興寺 〒607-8403 京都市山科区御陵大岩15  075-591-3647
50音索引,Japanese alphabetical order   Home   50音索引,Japanese alphabetical order  Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光