仏国寺 (京都市伏見区) 
Bukkoku-ji Temple
仏国寺 仏国寺 
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「仏国寺参道」の石標、境内へは峠道からさらに坂を登る。


「福聚毘沙門天けの石標


普光明殿



普光明殿






庫裏


鐘楼


層塔



【参照】境内墓地に隣接してある小堀遠州の墓
 京都から宇治へ向かう八科(やしな)峠からさらに丘陵地を上がると仏国寺(ぶっこくじ)がある。山号は天王山という。中世には、天皇山と号したともいう。
 黄檗宗、本尊は釈迦三尊。 
◆歴史年表 かつてこの地には、永光寺(えいこうじ)があった。
 江戸時代、1678年/1671年、高泉性敦(こうせん-しょうとん)が、この地にあった永光寺を復興し、仏国寺と名づけた。後水尾上皇(第108代)より「大円光」の宸筆勅額を賜わり、講堂を建てた。高泉門弟の雷洲が開創したともいう。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、仏殿、大悲閣、選仏場、食堂、開山堂、経蔵、浴室など複数の伽藍が建ち並び隆盛を誇った。その後、衰微する。
 近代、1868年以降、無住になり荒廃する。
 1922年まで、萬福寺塔頭・天真院が管理した。
 1934年、本堂が崩壊する。
◆高泉性敦 江戸時代前期の黄檗宗の渡来僧・高泉性潡(こうせん-しょうとん、1633-1695)。諡号は大円広慧国師、仏智常照国師。明、福建省に生まれ。叔父・無住の黄檗山に就いて落髪した。翌年、住持・隠元隆琦に師事、殿司兼司鼓鐘、行堂。1654年、慧門如沛(にょはい)の法嗣。1656年、飯頭、典賓、1657年、記室。1661年、来日し、長崎・崇福寺に入る。1663年、萬福寺初の授戒会で引請阿闍梨、1665年、奥羽・甘露山法雲院住持、1669年、萬福寺・法苑院を建立し住した。1675年、金沢・献珠寺の開山。1678年、伏見・仏国寺の開山。1685年、晦翁に印可を付与し嗣法とした。(代付事件)。1692年、独湛性瑩を継いで萬福寺5代となり黄檗宗中興の祖となる。1695年、江戸の将軍の徳川綱吉に拝礼、説法を行なう。萬福寺に帰り亡くなる。63歳。 
◆近衛家煕 江戸時代前期-中期の公家・書家・近衛家煕(このえ-いえひろ、1667-1736)。号は予楽院、吾楽軒、物外楼主人、青々林、昭々堂主人、虚舟子など。京都の生まれ。関白・近衛基煕(もとひろ)の子、母は第108代・後水尾天皇皇女・常子内親王。1673年、元服し、昇殿を許される。1676年、権中納言、内大臣、1693年、右大臣、左大臣、1704年、関白、第114代・中御門天皇摂政、1710年、太政大臣に至る。1725年、准三宮になる。落髪して法名を真覚といい、予楽院と号した。河原二条に居を移した。日記『家公記』、画集『花木真写』など。70歳。
 近衛家21代当主、従一位。書は賀茂流、のち家伝の古名跡に習う。宮廷茶の湯を確立し、詩歌、絵画、立花、香に秀で、有職故実に通じた。侍医・山科道安の『槐記(かいき)』は家煕の言行録になる。
◆小堀遠州 安土・桃山時代-江戸時代前期の大名茶人・小堀遠州(こぼり-えんしゅう、1579-1647)。名は政一、号は狐篷庵、宗甫、遠州は通称。近江国(滋賀県)に生まれる。父は新介正次、母は磯野丹波守員正の娘。1593年、大徳寺の春屋宗園(しゅんおく-そうえん)に参禅する。古田織部に茶の湯を学ぶ。1597年、藤堂高虎の養女を正室とする。大和郡山で豊臣秀長、豊臣秀吉、1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康に従う。その功により父の備中松山城を継ぐ。1604年、家督を継ぐ。1606年、宗園より孤篷の号を贈られる。1607年、大有を与えられた。1614年、1615年、大坂冬の陣、夏の陣に関わる。1616年、幕臣、1623年、要職の伏見奉行職に就き、以後、26年間にわたった。1606年、後陽成院御所の作事奉行になり、以後、駿府城、名古屋城、伏見城本丸書院、1606年、1633年、仙洞御所に関わり多くの建築、作庭、茶席の建築・作庭に携わる。1642年、徳川家光の茶道師範となる。69歳。
 墓所は孤篷庵(北区)にある。
 茶の湯、和歌、画、書に秀でた。
◆桃水雲渓 江戸時代前期の曹洞宗の僧・桃水雲渓(とうすい-うんけい、1612-1683)。号は桃水、洞水。筑後(福岡県)柳川の生まれ。商人の子。6歳の頃、肥前(佐賀県)武雄(たけお)・円応寺の圍巌宗鉄(いがん-しゅうてつ)に就き出家した。20歳を過ぎ諸国遊学し、大愚宗築(たいぐ-そうちく)、雲居希膺(うんご-きよう)、沢庵などに参禅した。肥後(熊本)の流長院に移った師に従い、1657年、圍巌の法を嗣ぐ。大坂、能登・総持寺、摂津・法厳寺などの寺を歴任し、島原・禅林寺を最後に寺を出奔した。その後、乞食の群れに入る。草鞋・酢を売り生計をたて、無一物の生活をして、こじき和尚、乞食桃水、酢屋道全(すや-どうぜん)と称された。晩年は鷹峯に移る。71歳。
 黄檗宗の隠元、木庵、即非独湛らとも交わる。風狂、散聖の人として知られた。京都、大津にも住した。四条河原の貧者の群に入り、救済した。面山瑞方(めんざん-ずいほう)の著『桃水和尚伝賛』がある。
 高泉と親交あり、仏国寺(伏見区)に葬られた。
◆仏像 ◈本堂には本尊「釈迦三尊像」がある。
 ◈「毘沙門天立像(福聚毘沙門天立像)」を安置する。空海作という毘沙門天は、高泉が小薮で仏面を拾い、弟子らがほかの部分も拾い集めて合わせると毘沙門天になったという。
◆建築 ◈「本堂」は、江戸時代、1678年に建立された。1934年の台風で倒壊し、その後、再建されている。
 ◈ほかに、納骨堂、鐘楼、経蔵などがある。
文化財 ◈境内に、「開山高泉碑」(重文)が立つ。江戸時代、1711年に鋳造した中国風の銅碑になる。亀趺の上に立つ。上部に双亀、下に「諡号大円広慧国師碑銘」と篆額されている。高泉に帰依した、公卿・近衛家熈(1667-1736)の1706年に撰した撰文(2240字)がある。裏面に謂れが記されている。高さ2m。
 ◈「桃水和尚の木版」があり逸話が残されている。九州のある尼僧が、崇敬する桃水のために織った布団を背負い上洛した。四条河原に来ると、乞食の世話を焼いている和尚の姿があった。尼僧が布団を差し出すと、これを病の乞食に与えたという。仲間の乞食が桃水を尊敬し始めると姿を消した。晩年、老いた桃水は、大津で藁草履を売って生計を立てた。同情した人があり、阿弥陀如来像の大津絵を贈った。桃水はこれを小屋の壁に掛け、消し炭で「せまけれど宿を貸すぞや阿弥陀殿 後世たのむと思召すなよ」と書いた。自らは仏に何も求めないとした。
◆墓 ◈桃水雲渓の墓がある。無縫塔であり、「円寂雲渓水公老宿之塔」と刻まれている。
 ◈寺が管理する墓地ではないが、隣接する古御香宮関係の墓地に、小堀遠州(遠江守政一)の墓がある。遠州の墓がある大徳寺塔頭・孤篷庵よりの分骨ともいう。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都の寺社505を歩く 下』、『京都の禅寺散歩』、『京都隠れた史跡の100選』、『伏見学ことはじめ』、『昭和京都名所図会 6 洛南』 、ウェブサイト「コトバンク」


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仏国寺 〒612-0843 京都市伏見区深草大亀谷古御香町30  075-641-3139
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