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佐女牛井跡・源氏堀川館跡 (京都市下京区) Samegai(Well) |
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佐女牛井跡・源氏堀川館跡 | 佐女牛井跡・源氏堀川館跡 |
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![]() 「佐女牛井之跡」の碑 |
堀川通に面し「佐女牛井(さめがい)跡」の碑が立てられている。佐女牛井明星水、醒ヶ井とも書かれる。付近に源氏堀川館(六条堀川館)が建てられていた。 平安時代から名水として知られていた。この、近くに茶家薮内家もある。 ◆歴史年表 平安時代、井戸は、源氏の六条堀川館(堀川館) に取り込まれる。堀川館は、源頼義(988-1075)以来、義家、為義、義朝、義経、静御前も住んだ。 1159年、平治の乱で平氏により焼失している。義経(1159-1189) により再びこの地に堀川館が再建された。 1185年、頼朝の命を受けた土佐坊昌俊は、堀川館の義経を夜討ちした。屋敷はその後、取り壊される。 室町時代、茶祖・村田珠光(1423-1502) は佐女牛井の近くに四畳半の茶室を営んだ。井水を愛用し、足利義政が度々訪れた。紹おう、利休などの茶人も使った。 江戸時代まで、池が残っていたという。 1616年、織田有楽斉が井戸を修繕している。その際に碑が立てられたという。 1788年、天明の大火により荒廃する。 近代、1945年、戦時中の強制疎開により堀川通が拡張され、井戸も撤去された。戦後、石碑が緑地帯に立てられた。 現代、1969年、石碑が現在地に移された。 ◆源 頼義 平安時代中期の武将・源 頼義(みなもと-の-よりよし、988-1075)。男性。河内国(大阪府)の生まれ。父・河内源氏初代・頼信、母・修理命婦(しゆりみようぶ)の嫡男。妻は平直方(なおかた)の娘。1030年、平忠常の乱(長元の乱)で、父と共に上総に下り平定し、河内源氏2代目として東国への進出を図る。小一条院(敦明親王)の判官代として仕え、その功により、1036年、相模守になり、東国の武士を従えた。1051年、安倍頼時の乱に陸奥守として派遣され頼時を帰服させた。1053年、鎮守府将軍を兼ねる。1056年、頼時は再び反乱する。1057年、頼義は頼時を討つ。頼時の子・貞任(さだとう)らは抵抗する。1062年、出羽の清原光頼・武則の支援で貞任を降伏させ、1051年来の前九年の役を子・義家とともに平定した。その功により、1063年、正四位下伊予守になった。石清水八幡を鎌倉由比(ゆい)郷に勧請し、鶴岡若宮(鶴岡八幡宮前身)を創建して源氏の氏神とした。88歳。 武芸に秀で弓の達人として知られた。坂東武士の多くを門客として組織し、東国での源氏勢力を強化した。 父と共に菩提寺・通法寺(羽曵野市)を開き、その寺跡に墓がある。 ◆源 義経 平安時代後期-鎌倉時代前期の武士・源 義経(みなもと-の-よしつね、1159-1189)。男性。幼名牛若丸、遮那王とも名乗った。父・源義朝、母・常盤御前。1159年、父が平治の乱で敗死、平氏より逃れる。母・常盤御前は捕えられ、三人の子が寺に入ることを条件に命を許される。義経は、公卿の藤原長成の援助により鞍馬寺・東光坊阿闍梨蓮忍に預けられる。後、禅林坊の覚日のもとへ移る。金商人・吉次にとともに奥州に移る。1180年、兄・頼朝の挙兵し呼応、1183年、頼朝の代官として畿内近国に派遣される。1185年、壇の浦で平氏を滅ぼした。だが、三種の神器の宝剣を回収できず兄・頼朝との対立、畿内近国の支配権を奪われる。後白河法皇による頼朝追討宣旨を得て挙兵するが失敗し、愛妾・静御前と共に吉野に、さらに奥州藤原秀衡を頼り逃れた。だが、その没後、藤原泰衡により衣川の館で討たれ自刃した。31歳。 ◆静 御前 平安時代末-鎌倉時代前期の静 御前(しずか-ごぜん、?-1187?)。詳細不明。女性。静。母・磯禅師(いそのぜんじ)。京都随一の白拍子になる。10代後半より源義経の愛妾として六条堀川館に住した。1185年、旧10月、義経が兄・源頼朝の刺客・土佐房昌俊(とさぼうしょうしゅん)に襲われたとき、機転によって義経を助けた。旧11月、兄・頼朝と不和になった義経が西国に赴く際に同行した。摂津・大物浦(だいもつのうら)を経て、大和吉野山で義経と別れる。身重で捕えられ、1186年、旧3月、母とともに鎌倉に送られた。義経の行方を厳しく取調べられる。静は固く沈黙を守ったという。1186年、旧4月、頼朝、妻・政子に鶴岡八幡宮社前で舞を舞うように命じられたという。義経を恋い、「吉野山峰の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」「しずやしず賤(しず)の苧環(おだまき)くりかへし昔を今になすよしもがな」と歌い舞い、頼朝の不興を買った。政子のとりなしにより事なきを得た。閏7月、鎌倉で義経の子を出産した。男児だったため、帰洛条件により頼朝により、子は由比ケ浜の海中に沈められた。静は母とともに放免される。余生は不明とも、京都に戻り尼になり、嵯峨野に庵を結んだともいう。20歳。 後世、謡曲に『吉野静』『二人静(ふたりしずか)』、浄瑠璃「義経千本桜」などの主題となった。 ◆土佐坊 昌俊 平安時代後期の僧・武士・土佐房 昌俊(とさのぼう-しょうしゅん、?-1185)。男性。大和・興福寺西金堂の堂衆。後に土肥実平の仲介で源頼朝に従う。『平治物語』では渋谷重家の子・金王丸とし、源義朝に仕えたという。1185年、源頼朝の命を受け、頼朝の弟・義経暗殺のために鎌倉から上洛する。義経の詰問に対し、謀事を否定する誓文を書く。一旦、宿所に引き返し、六条室町の義経邸を急襲した。計略は失敗し、鞍馬山に逃げ、追っ手に捕えられる。六条河原で斬首、晒し首にされたという。(『吾妻鏡』) ◆村田 珠光 室町時代前期-後期の茶人・村田 珠光(むらた-じゅこう/しゅこう、1423-1502)。男性。幼名は茂吉、別号は香楽庵、珠光庵、独盧(どくろ)軒、休心法師など。大和(奈良県)の生まれ。父・奈良・杢市検校という。11歳で奈良の浄土宗・称名寺の了海の徒弟になり、出家する。法林庵を預かる。出家を厭い、寺役を怠たり寺から追放された。両親からは勘当を受けた。20歳の頃、還俗し、諸国放浪し、連歌師、闘茶の判者などをした。上京し茶人になり、六条左女牛(さめうし)に住んだという。大徳寺・一休宗純に参禅し、印可の証として圜悟克勤(えんご-こくごん)の墨蹟を与えられ、初めて茶掛に用いたことから墨蹟開山と称せられる。禅味を加えた点茶法を始めた。茶禅一味の境地に達し、佗茶(わびちゃ)を創始した。能阿弥に立花と唐物目利きを学ぶ。能阿弥の推薦で足利義政の同朋衆、茶道師範になったともいう。1493年、大徳寺・真珠庵の「一休和尚十三回忌奉加帳」に一貫文を寄付した。80歳。 茶道の祖、茶道の開山、侘茶の創始者とされる。和漢の混融を説いた。武野紹鷗、古岳宗亘、大林宗套、宗長、志野宗信らとも親交があった。貴族向きの書院茶に対し、庶民向きの数寄茶を創案し、、茶器類の鑑定にもすぐれ「珠光名物」と呼ばれる名物道具十数種を所持した。弟子・宗珠(そうしゅ)を後嗣にした。 ◆佐女牛井 東西の佐女牛(さめうじ)小路(現在の花屋町通)が六条大路の南にあった。(『拾芥抄』)。この小路の名が佐女牛井の由来になったという。「さめうじい」が「さめぐい」「さめがい」に転訛する。 湧水は京三名水の一つに数えられた。醒ヶ井(さめがい)とも記された。これは、醒井(滋賀県米原市)との混同によるともいう。 ◆源氏堀川館 源氏累代の居宅である源氏堀川館は、佐女牛井町の西(六条堀川)に在り、現在の石碑の位置は南東隅になる。館では、佐女牛井より取水していたという。 中心の邸宅は六条堀川邸と呼ばれた。源頼義以来、義家、為義・為朝父子、義経らが拠点にした。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都の地名検証 2』、『おんなの史跡を歩く』、『京に燃えたおんな』、『京を彩った女たち』、『京に燃えた女』、『京都大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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