柳の井(柳の水) (京都市中京区)
Yanaginoi(well)
柳の井 柳の井 
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馬場染工業にある柳の水


石標「茶人村田珠光・織田信雄・加藤清正・紀州藩 古蹟古跡」


馬場染工業
 西洞院通三条下ル柳水町に、「茶人村田珠光・織田信雄・加藤清正・紀州藩 古蹟」の石標が立つ。 
 「柳の井(やなぎのい、柳の水)」とは、かつて西洞院三条南にあった。鳳凰山青柳寺という寺院があり、法華宗の道場が開かれていた。「柳」も、この寺の名に由来するともいう。
◆歴史年表 室町時代、茶道の祖・村田珠光(1422-1502)は、この地に住み、室町8代将軍・足利義政(1436-1490)も度々訪れて茶を飲んだという。
 室町時代-安土・桃山時代、茶人・千利休(1522-1591)も茶の湯に使った。利休は井戸の傍に柳を植え、水に光が射すのを避けたという。
 安土・桃山時代-江戸時代、織田信長の二男・信雄(1558-1630)がこの地に住んだ。信雄が井戸の傍らに柳を植えたことに名の由来があるともいう。
 後に、加藤清正(1562-1611)家の京邸になる。清正の子・忠広(1598-1653)も住した。
 江戸時代初期、茶道に通じた松花堂昭乗(1584-1639)は、将軍・徳川家光に江戸へ招かれ一筆頼まれる。だが、柳の水でないと筆が乗らないと断る。このため、家光は水を取り寄せ、昭乗は筆をすぐに取ったという。
 貞享年間(1684-1687)以降、紀州和歌山藩邸になった。
 近代以降、呉服問屋の別荘地になる。
 1870年、馬場染工業が、柳水町で創業される。かつて現在地より50mほど東にあったという。
◆村田珠光 室町時代中期の茶人・村田珠光(むらた-じゅこう/しゅこう、1423-1502)。幼名は茂吉、別号は香楽庵、珠光庵、独盧(どくろ)軒など。奈良・杢市検校の子という。11歳で奈良・称名寺の了海の徒弟になり、出家する。法林庵を預かる。20歳の頃、還俗、放浪し、連歌師、闘茶の判者などをした。上京し茶人になり、六条左女牛(さめうし)に住んだという。大徳寺・一休宗純に参禅し、茶の湯に点茶を会得した。能阿弥に立花と唐物目利きを学ぶ。能阿弥の推薦で足利義政の茶道師範になったともいう。和漢の混融を説いた。武野紹鷗、古岳宗亘、大林宗套らとも親交があった。庶民向きの数寄茶を創案し、侘び茶の創始者、茶道の開山とされる。「珠光名物」と呼ばれる名物道具を所持した。弟子・宗珠(そうしゅ)を後嗣とした。80歳。
◆織田信雄 安土桃山時代の武将・茶人・織田信雄(おだ-のぶかつ/のぶお、1558-1630)。名は信意・具豊、幼名は茶筅(茶箋)丸、三介、通称は本御所、出家後、常真と号した。尾張国に生まれた。織田信長の次男。母は生駒氏。1569年、信長が伊勢国司家・北畠具教・具房父子を大河内城に攻め、信雄を具房の猶子にする講和が結ばれた。以後、信長の主な戦いの、1570年-1580年、石山本願寺との戦、1575年、越前一向一揆討伐に加わる。1576年、伊勢国司になる。1577年、紀伊雑賀攻めに参陣した。1581年、伊賀平定の功により伊賀3郡を与えられる。1582年、本能寺の変では伊勢におり、明智光秀の敗死の報により兵を戻す。同年、清洲会議で、織田家家督は長男・信忠の遺児・三法師(秀信)が継ぎ、後見役として清洲城、尾張・伊賀・南伊勢などを与えられた。1583年、豊臣秀吉と組み、弟・織田信孝を岐阜城に破る。その後、秀吉と対立した。1584年、徳川家康と結び、小牧・長久手の戦で秀吉と戦う。単独で秀吉と講和を結び、1585年、秀吉の越中攻め、1587年、正二位内大臣になる。1590年、小田原攻めに従軍した。家康旧領への転封を拒み、秀吉の怒りを買う。下野烏山に配流され、出家して常真と号した。後、家康のとりなしで秀吉の御咄衆になった。1600年、関ヶ原の戦で西軍家康に加担し領地を失う。1615年、大坂夏の陣で家康に味方し、その後、大和国を領した。叔父・有楽斎(長益)に茶の湯を学び、茶人としても知られる。72歳。
◆加藤清正 安土・桃山時代-江戸時代の武将・加藤清正(かとう-きよまさ、1562-1611)。幼名は虎。尾張生まれ。清忠の次男。豊臣秀吉と同郷の縁により9歳より秀吉の台所方に仕える。元服し加藤虎之助清正と名乗る。1580年、播磨国神東郡120石を給せられる。1581年、鳥取城攻め、備中国冠山城攻め、1582年、山崎の戦い、丹波亀山の戦いに勝利した。1583年、賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられた。1585年、従五位下主計頭に叙せられる。1587年、九州征伐には後備、肥後宇土城番を勤める。1588年、肥後北半国領主を任じられ熊本城主になる。1592年-1593年、文禄の役に出兵する。李朝の2王子を捕縛し、兀良哈(オランカ)まで攻めた。講和派の石田三成らと対立した。1596年、一時蟄居を命じられ、徳川家康の後援で解除される。1597年-1598年、慶長の役に再出兵し、蔚山(ウルサン)城で苦戦した。1600年、関ヶ原の戦いで小西行長らと確執し東軍に付く。行長滅亡後は54万石の大大名になる。1603年、従四位下肥後守に叙任した。その後、江戸城、名古屋城の普請工事を行う。1611年、二条城で秀吉遺児・秀頼と徳川家康を会見させ、豊臣家の存続を念願した。その後、病急死した。50歳。本妙寺(熊本市)に葬られる。
 日蓮宗の熱烈な信者でキリシタンを弾圧した。治水、築城、築堤の名手として知られた。
◆松花堂昭乗 安土・桃山時代-江戸時代初期の真言宗学僧・書画家・歌人・松花堂昭乗(しょうかどう-しょうじょう、1582/1584-1639)。姓は喜多川、幼名は辰之助、通称は滝本坊、別号に惺々翁・南山隠士など。摂津国堺に生まれたともいう。幼少期を兄・中沼元知の家で送る。近衛信尹に仕えた。1600年、山城国石清水八幡宮の滝本坊実乗のもとで社僧になり、真言密教を修め阿闍梨法印の位に就く。1627年、師の跡を継ぎ滝本坊住職になる。1624年、滝本坊が焼失し、弟子に譲り、泉坊に移り猩々翁(しょうじょうおう)と号した。1637年、男山の山中泉坊に草庵「松花堂」を結び、松花堂と号し隠遁した。
 寛永文化の担い手として、書は近衛竜山に御家(おいえ)流、大師(だいし)流に学び、松花堂流、滝本流といわれた。「寛永の三筆(ほかに本阿弥光悦、近衛信尹)」の一人になる。画は狩野山楽に学ぶ。宋の牧谿(もっけい)を研究した。水墨画に「葡萄に鶏図」がある。茶は、「きれい侘び」の小堀遠州につき、収集した茶道具は「八幡名物」と呼ばれた。連歌、生け花の心得もあった。金森宗和、沢庵宗彭、石川丈山、本阿弥陀光悦、佐川田昌俊、烏丸光広、片桐石州、佐久間真勝、江月和尚とも親交があった。56歳。墓は泰勝寺(平谷町)にある。
◆加藤忠広 江戸時代前期の大名・加藤忠広(かとう-ただひろ、1601-1653)。幼名は虎之助、虎藤、肥後守。加藤清正の3男。1611年、父・清正の没後、11歳で肥後国熊本藩加藤家2代を継いだ。幼少のため幕府目付衆の監督を受けた。将軍・徳川秀忠の養女を夫人とし、妹・あまは家康の10子・頼宣に嫁した。1614年-1615年、大坂の陣で、国元に留め置かれた。家中の派閥抗争に発展し、1618年、幕府の裁定を受け、若年を理由に許される。1632年、家光暗殺を企てたとして、参勤のため江戸入府を留められる。所領没収になり、出羽庄内に流され、嫡子・光広は飛騨国へ配流になった。53歳。
◆西洞院川 かつて西洞院通の四条以南には西洞院川が流れ、付近には名水が湧いた。西洞院川は、川幅は狭く、現在の西洞院通の中央を東西方向に流れ、上鳥羽で天神川に注いでいた。
 中世、西洞院川沿いには紺屋が建ち並び、その用水として利用されていた。川はその後、暗渠化されている。
◆馬場染工業 馬場染工業は、京染めの歴史を受け継いでいる。黒紋付など黒染め専門店として、京の染屋の数少ない老舗になる。 
 黒染めの命は水とされる。染めに使う水は、微量の鉄分が含まれていることが重要だという。鉄分は多すぎても少なすぎても合わない。多すぎると酸化し、赤く染まる。
 柳の水は最適であり、黒色の発色も良く堅牢度も高くなる。
 いまも石の井筒が残されている。


*参考文献 『京都 歴史案内』『京都大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」


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柳の水 〒604-8242 京都市中京区柳水町,西洞院通三条下ル 
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