蔵泉庵 (京都市西京区)
Zosen-an Temple
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 嵐山・松尾山の山麓、高台に尼寺の小庵・蔵泉庵(ぞうせんあん)はある。山号は宝珠山。尼五山の一つ慈受院門跡(薄雲御所)末寺。 
 臨済宗相国寺派。本尊は十一面観世音菩薩。
 足利期尼五山の三子院のひとつ。西国洛西観音霊場第28番札所。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 室町時代、創建されたという。
 その後、たびたび焼失している。
 安土・桃山時代、1582年、山崎の戦いに敗れた武将・明智光秀が、一時、当寺に隠れ潜んでいたともいう。
 江戸時代、元禄年間(1688-1704)、諄貞院花山院前左定好卿息女により再興されたという。
◆夢窓疎石 鎌倉時代-南北朝時代の臨済宗僧・夢窓疎石(むそう そせき、1275-1351)。伊勢国に生まれた。父は佐々木朝綱、母は平政村(北条政村?)の娘。1283年、市川・天台宗の平塩山寺・空阿大徳に師事、後に剃髪。1292年、奈良・東大寺の慈観につき受戒。平塩山寺・明真没後、建仁寺・無隠円範に禅宗を学ぶ。1295年、鎌倉に下向、東勝寺・無及徳栓、建長寺・韋航道然、1296年、円覚寺・桃渓徳悟、建長寺・痴鈍空性に参じた。1297年、建仁寺・無隠円範、1299年、建長寺・一山一寧のもとで首座、1303年、鎌倉・万寿寺の高峰顕日に禅を学び、1305年、浄智寺で印可を受ける。浄居寺開山。1311年、甲斐国牧丘の龍山庵、浄居寺に一時隠棲する。美濃国・虎渓山永保寺(古谿庵)を開き、北山、土佐、鎌倉、三浦、上総と移り、1325年、第96代・南朝初代・後醍醐天皇の請により上洛、南禅寺住持。1326年、北条高時に鎌倉・寿福寺の請を避け伊勢国・善応寺を開く。鎌倉・南芳庵に居し、1327年、瑞泉寺を開く。1329年、円覚寺に入り高時、北条貞顕の信を得る。1330年、甲斐・恵林寺を開き、1331年、瑞泉寺、1332年、恵林寺に移り、播磨・瑞光寺を開く。1333年、鎌倉幕府が滅亡、建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれ、1334年南禅寺に再住、1336年、臨川寺・西芳寺開山に迎えられた。足利家の内紛の観応の擾乱で調停し、北朝方の公家や武士が帰依する。尊氏は後醍醐天皇らの菩提を弔うため、疎石の勧めで全国に安国寺を建立、利生塔を設置した。1339年、天龍寺開山。1342年、建設資金調達のため天龍寺船の派遣を献策した。1346年、雲居庵に退隠。1351年、天龍寺再住。最晩年は臨川寺・三会院(さんねいん)に移り亡くなった。
 夢窓国師・正覚国師など、歴代天皇より7度国師号を賜与され七朝帝師と称された。北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏らの帰依を受け外護を得た。夢窓派としては、無極志玄、春屋妙葩など門下は13000人にのぼる。多くの作庭も行う。能書家としても知られた。
◆明智光秀 明智光秀(1528?-1582)。美濃に生まれた。越前・朝倉義景に仕え、織田信長、足利義昭にも奉仕し、各所を転戦する。1582年、信長が光秀を顧みないことに反発、光秀は謀反を決意した。備中出陣の名目により、兵1万3000を率い、亀山城を発する。本能寺を急襲し、信長を自刃させた。だが、羽柴秀吉との山崎の戦い(1582)に敗れ、勝竜寺城(長岡京市)から坂本(滋賀)に向かう途中、小栗栖(京都市伏見区)で土民の襲撃によって深い傷を負い、自刃した。
◆腰掛け石 鎌倉時代の僧・夢窓疎石(夢窓国師)が、西芳寺から天龍寺に法話を聞くために通い、腰を下ろしたという腰掛け石が2つ、門前に置かれている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』


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夢窓国師腰掛け石

本堂へ上がる石段

 蔵泉寺 〒616-0015 京都市西京区嵐山山ノ下町18  075-871-4939
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