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山城国分寺跡 (恭仁宮跡) (京都府木津川市)
Site of Yamashiro-kokubun-ji Temple,Kunikyu
山城国分寺跡 (恭仁宮跡) 山城国分寺跡 (恭仁宮跡)
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「史跡山城国分寺跡」石標


礎石群






礎石








恭仁宮大極殿跡



恭仁宮大極殿跡基壇



「山城国分寺跡 旧恭仁宮跡」石標







礎石



礎石



礎石






御堂




一帯の航空写真、中央左やや上に「太極殿跡」、中央右に「塔跡」、説明板より


【参照】宮都の変遷、下に飛鳥諸宮・藤原京、中央に平城京、左に難波京、上に恭仁京(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所の説明板より)
 京都府南部、木津川市加茂町の瓶原(みかのはら、甕原、三日原)盆地に、山城国分寺跡(やましろ-こくぶんじ-あと)、恭仁宮跡(くにきゅうせき)がある。古代、この地には第45代・聖武天皇の恭仁京(恭迩京、久迩京)が遷された。恭仁京は3年3カ月で終わり「幻の都」とも呼ばれた。
 その後、山城国分寺が建立された。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 飛鳥時代-奈良時代、この地に第43代・元明天皇(661-721)の離宮が営まれた。
 奈良時代、740年、第45代・聖武天皇により、平城京より恭仁京に遷都が行われる。大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)とも呼ばれた。長堂院、周囲を取り巻く回廊などが移築される。
 741年、聖武天皇の発願により、諸国に国分寺を建立する詔が発せられた。
 743年頃、山城国分寺は建立されたとみられている。その場所、規模については不明だが、加茂町河原、山城町上狛付近だったともいう。正式には金光明四天王護国之寺、また大養徳国金光明寺と呼ばれた。開基は行基(668-749)ともいう。
 744年、難波宮に遷都になり、恭仁京は廃都になる。
 746年、山城国分寺は現在地の恭仁京跡に移転したとみられる。恭仁宮大極殿が寺に施入され、金堂として使用された。七重塔、境内鎭守社(旧御霊神社)などが整えられた。(『続日本紀』)
 882年、焼失する。
 昌泰年間?(898-901、昌泰9年ともされるが昌泰は4年までしかない?)、再建されたという。奈良・興福寺の末寺となり、本尊を薬師如来とし、僧坊12宇、鎮守社があったという。(『興福寺官務牒疏』)
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、本尊を阿弥陀如来とし、瓶原の河原村東二町(218.1m)に再興され、浄土宗の僧が守ったという。(『山州名跡志』)
 近代、大極殿跡の基壇上に役場が設けられていた。
 現代、1957年、「山城国分寺跡」として、国の史跡に指定された。
 1973年、京都府教育委員会の発掘調査により大極殿の遺構が発見される。
 2007年、史跡指定範囲拡大により、「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」に変更された。
 2015年、朝堂院跡南側より新年を祝う儀式「元日朝賀」に用いる旗、幟を立てたとみられる柱穴の跡が発掘された。奈良時代、741年、742年の正月のものと見られ、国内最古とされる。
 2021年、京都府文化財保護課により朝堂院の構造が確定した。
 2025年、3月、京都府教育委員会は、発掘調査の報告書(3回目)をまとめる。
◆元明 天皇 飛鳥時代-奈良時代前期の第43代・元明 天皇(げんめい/げんみょう-てんのう、661-721)。女性。名は阿閇(あべ/あべの、阿陪)、和風諡号は日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)。父・第38代・天智天皇、母・姪娘(めいのいらつめ、宗我嬪[そがのひん])(蘇我倉山田石川麻呂[そがのくらやまだいしかわまろ]の娘)の第4皇女。同母姉に長屋王の母・御名部(みなべ)皇女、第41代・持統天皇の異母妹。675年、十市(とおちの)皇女と伊勢神宮に赴く。679年頃、草壁皇子の正妃になる。皇子没後、子・珂瑠皇子が第42代・文武天皇に即位した。683年、軽(かる)皇子(第42代・文武天皇)を産む。680年、氷高皇女(第44代・元正天皇)を産んだ。?年、吉備内親王を産む。685年、巡察使が置かれる。689年、夫・草壁皇子が死去し、異母姉で草壁の母・持統天皇が即位する。697年、15歳の文武天皇に譲位し、元明は、天皇の母(皇太妃)として権力を持った。701年、制定の大宝律令を整備・運用した。706年、文武天皇が重病になり譲位は受けなかった。707年、文武天皇の没後、初めて皇后を経ずに自ら即位した初の女帝になる。元明の即位は幼少の孫・首(おびと)皇子(聖武天皇)の即位を保障するためとされる。在位中に、藤原不比等が政権を担当し、銅の献上を契機に、708年、和銅に改元し、和同開珎を鋳造する。不比等を重用し、710年、平城京遷都する。官吏の俸禄の支給規定をつくり、711年、蓄銭叙位令により流通を計った。712年、太安万侶により『古事記』が献上され、713年、『風土記』が編纂される。715年、律令制下の地方行政組織郷里(ごうり)制が実施された。同年、娘・氷高内親王(元正天皇)に譲位し太上天皇として後見する。721年、薄葬を遺詔して平城宮に没した。『万葉集』に入る。61歳。 
 火葬され奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)に葬られる。
 奈良朝第1代の女帝になる。不比等らの補佐を得て律令政治を推進した。陸奥征討計画など領域拡大も計られた。大規模な労働徴発は浮浪逃亡を引き起こした。異例の自らの即位の背景に、首皇子の外祖父・不比等の支持があったとみられる。即位正当化のため初めて第38代・天智天皇に仮託した「不改常典(あらたむまじきつねののり)」が用いられた。
◆元正 天皇 飛鳥時代-奈良時代の第44代・元正 天皇(げんしょう-てんのう、680-748)。女性。和風諡号は日本根子高瑞浄足姫(やまとねこたかみずきよたらしひめ)天皇。諱は氷高(ひだか)、新家(にいのみ)。大和飛鳥(奈良県)の生まれ。父・草壁皇子(第40代・天武天皇皇太子)、母・第43代・元明(げんめい)天皇(阿閇[あべ]皇女)。第42代・文武(もんむ)天皇の同母姉。714年、二品で食封1000戸を与えられる。715年、一品。母・元明天皇の後を継ぎ、皇太子・首(おびと)皇子(第45代・聖武天皇)が幼年虚弱のため未婚のまま即位した。717年、遣唐使派遣、718年、藤原不比等(ふひと)らによる養老律令編纂が完了した。719年、按察使(あぜち)を設置し、蝦夷(えぞ)の反乱を討伐した。720年、大隅隼人(おおすみはやと)の反乱がある。『日本書紀』を完成させた。721年、長屋王政権が成立する。723年、良田100万町歩開墾計画、三世一身法(さんぜいっしん)制定する。724年、甥・第45代・聖武天皇に譲位し太上天皇になる。上皇として宮廷に重きをなした。740年、藤原広嗣の乱以後、紫香楽の聖武天皇、難波の元正・橘諸兄と皇権の所在が分裂した。743年、皇太子・阿倍が元正の前で五節舞を舞い、その地位を確かにする。747年、暮れに発病し、748年、死去した。69歳。
 佐保山陵に火葬される。2年後、大和奈保山陵(諸陵式奈保山西陵[なほやまのにしのみささぎ])に改葬される。
 治世の前半は母・上皇と不比等、後は長屋王が政権を担う。律令体制の強化・浸透をはかった。国郡分割・郷里制施行など地方行政組織の整備、計帳他文書行政の充実、浮浪人・私度僧対策などを行う。衣服の襟をはじめて右前にさせ、四等官以上の官吏に笏をもたせ、美濃多度山醴泉(たどさんれいせん、養老の滝)へ再度行幸した。難波京、和泉監(いずみのげん)離宮へしばしば行幸した。長屋王邱との関係が注目される。『万葉集』に所収。
◆聖武 天皇 飛鳥時代-奈良時代の第45代・聖武 天皇(しょうむ-てんのう、701-756)。男性。諱は首(おびと)、天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇、尊号は勝宝感神聖武皇帝、法号は勝満(しょうまん)。父・第42代・文武天皇、母・藤原宮子(藤原不比等の娘)の第1皇子。707年、文武天皇が夭折し、幼齢嫡長子のため、祖母の第43代・元明天皇、叔母の第44代・元正天皇が中継ぎする。714年、立太子、716年、不比等の娘・安宿媛(あすかべひめ)を光明皇后とし、皇族皇后の慣習を破った。718年、皇后との間に阿倍内親王(第46代・孝謙天皇、第48代・称徳天皇)、727年、基(もとい)王(某王)、夫人・県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)との間に、728年、安積(あさか)親王、717年、井上(いかみ)内親王、?年、不破内親王らが生まれた。ほか、夫人には藤原武智麻呂の娘・房前の娘などあった。719年、政務に携わる。724年、藤原氏の協力により即位した。蝦夷(えみし)の反乱がある。728年、第2皇子・安積親王が生まれ、皇太子に立てた第1皇子・基が早世する。不比等の4子らは、将来権力の座を奪われることをおそれ、729年、陰謀により対立した左大臣・長屋王とその子を自殺に追い込み、光明立后を強行した。(長屋王の変)。736年-737年、天然痘の大流行により藤原武智麻呂ら4兄弟を失う。738年、阿倍内親王を皇太子とし、皇女立太子の初例をつくる。740年、九州での大規模な反乱(藤原広嗣の乱)後、政情・世情安定せず、741年、平城京(奈良県)を出て恭仁京(京都府)遷都を行う。右大臣後の左大臣・橘諸兄と遷都で対立した。仏教信仰篤く、国分二寺の造営を発願し建立を詔した。743年、墾田永代私財法により墾田政策を推進する。東大寺大仏として結実する、盧舎那仏の造顕を発願した。744年、難波京(大阪府)、745年、紫香楽(しがらき)京(滋賀県)と遷都を繰り返し、746年、平城京に戻った。749年、阿倍内親王(第46代・孝謙天皇)に譲位する。光明皇太后のために紫微中台(しびちゆうだい)が設置され、藤原仲麻呂が長官になり次第に勢力拡大する。大仏造営を発願し、752年、開眼供養になる。754年、鑑真から菩薩戒を受けた。756年、道祖王(ふなどおう)を皇太子にすることを遺詔して没した。56歳。
 御陵は奈良市法蓮(ほうれん)町の佐保山(さほやま)南陵になる。
 在世中に2度の遣唐使を派遣し、唐の文物制度を採用する。仏教を深く信仰し仏教興隆に尽くし、律令国家・天平文化を開花させた。東大寺のほか国ごとに国分寺・国分尼寺を建て自写した経文を納めた。これらの造営事業、3度の遷都は膨大な費用を要し、律令体制の崩壊を早めた。遺愛品は皇太后により献納され、東大寺正倉院宝物として現存する。聖武天皇唯一の書跡として正倉院に「雑集」が伝えられている。
◆恭仁京 奈良時代、740年旧9月、北九州で起きた左遷に不満を持つ藤原広嗣の乱の後、旧12月に聖武天皇の勅命により、平城京から遷都となる。天皇は東国行幸の後、平城京に戻らず恭仁京に入る。
 遷都は平城京の藤原不比等に対して、左大臣・橘諸兄が自らの本拠地だった相楽に都を遷し、権力回復を目指す意図があった。また、この地が選ばれたのは、木津川の水運(木津川舟運)を利用でき、平城京よりも交通の便が良かった。古くから離宮が営まれる風光明媚の地だった、「四禽図に叶い、三山鎮を成す」風水の地でもあった。
 741年、木津・加茂・山城にまたがる地に左京、右京が定められ、「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」と称された。平城京からは大極殿(基壇跡は東西53.1m、南北28.2m、建物は東西9間(44.7m)、南北4間(19.8m)、朝堂院(東西125-133.8m、南北323mの長方形)、回廊などの建物が移され、大宮垣、宮殿が造られた。恭仁京は条坊地割りが行われ、南北750m、東西560mの規模があった。これは、平城宮の3分の1弱の広さになる。南に流れている木津川には大橋が架けられたという。
 742年、天皇は朝賀を受ける。だが、743年、造都は突然に中止になり、天皇は近江紫香楽宮に移る。恭仁京はこの地に、わずか3年しか置かれなかった。なお、恭仁京に先代の第44代・元正太上天皇が居たという可能性も指摘されている。聖武天皇に協力し、共に統治していたとみられる。744年、難波京に遷都になる。さらに、地震など多発し、不穏なことが相次ぐ。745年には平城京に戻されている。この間、恭仁京、紫香楽宮、難波京、平城京と4つの都間で揺れ動いた。天災、事故も重なり、財政も悪化していった。特に、745年旧4月に美濃国を震源とした大規模な内陸直下型群発性があり、平城京遷都の最大の理由になったとする説もある。
 現代、2016年、発掘調査により、朝集院の南東、南西、北西角が確認された。これにより、区画一辺は東辺124.8m、西辺125.8m、南辺133.7m、北辺134.6mと判明した。
◆木津川舟運 古来より主要な交通手段としては舟運(しゅううん)が発達し、都は河川の近くに置かれていた。奈良時代、平城京(710-784)の物資輸送に大きな役割を果たしていたのは、大和川舟運だった。
 恭仁京(740-744)では、木津川舟運が役割を担う。恭仁京は木津川が西から北に大きく流れを変えた北岸の河岸段丘上にあった。ここに木津川舟運の港(上津遺跡)が開かれ、恭仁京はその対岸に位置していた。
 恭仁京から難波京(744)への遷都の際には、淀川舟運が利用されたという。
◆山城国分寺 奈良時代、744年に第代・聖武天皇が造営した恭仁宮の廃都後、746年に山城国分寺は建立された。聖武天皇が全国に建立させた寺院の一つになる。
 寺域は南北3町(330m)、東西2町半(275m)あり、全国の国分寺でも指折りの広さだった。旧宮殿を造り替えて建てられ、中心施設の大極殿を金堂に転用し、七重塔などがあった。金堂の東側は国分寺の鎮守社・御霊神社の境内だったとされている。
◆和歌 百人一首に「みかの原 わきて流るる 泉川(いづみがは) いつ見きとてか 恋(こひ)しかるらむ」(中納言兼輔、『新古今集』)がある。平安時代前期-中期の公卿・歌人・藤原兼輔(ふじわら-の-かねすけ、877-933)は、紫式部の曾祖父で、三十六歌仙の一人になる。
 現代語訳は「みかの原(瓶原、現在の木津川北側の一部、相楽郡加茂町)から湧き出て、原を二分するようにして流れる泉川(現在の木津川)ではないが、いったいいつ逢ったといって、こんなに恋しいのだろうか。」
◆遺跡 恭仁小学校の北に恭仁宮の大極殿跡の基壇が残る。山城国分寺の金堂礎石でもある。大極殿は平城宮より移築され山城国分寺金堂になった。
 小学校の東に、山城国分寺の七重塔跡の礎石も残されている。
 ◈ 現代、2015年、京都府教育委員会は、恭仁宮跡朝堂院跡南側(大極殿跡より250m南側)で、奈良時代、741年、742年の新年に儀式「元日朝賀」で用いた旗、幟を立てた宝幢(ほうどう)柱穴跡を発掘したと発表した。儀式は、元旦に天皇が大極殿で役人より祝賀を受けたもので、即位式と同等の重要な儀式だった。
 穴は3つ(幅約3m、奥行1-1.5m、深さ0.5-0.8m)あり、楕円形で一直線上に等間隔に空けられ、内部に旗竿柱痕と2本の支柱痕があった。平城京、長岡京遺跡に次いで3例目になり、国内最古例と見られている。
 ◈現代、2018年度の発掘調査で、大極殿院の規模・構造が一定判明した。大極殿院(南北215m、東西145m)の南限とみられる遺構が初めて確認された。 通常は、朝堂院(南北103m、東西115m)に面する大極殿院南面の回廊・大極殿院南門は、壮麗な施設に建てられる。
 恭仁宮大極殿院では、 大極殿院南面が掘立柱塀であり、 門も存在しないという簡素な構造物だった。大極殿院回廊が全体的に未完成だったとみられ、大極殿院南面も掘立柱塀にしたのではないかとみられている。
 ◈ 現代、2021年9月、京都府文化財保護課は朝堂院構造が確定したと発表した。1974年からの発掘調査により、恭仁京内区画施設の規模全てが確定した。
 朝堂院の四隅が確認され、東西116.9m、南北98.8mの規模だった。朝堂院は四周を掘立柱塀で囲まれていた。大極殿院を囲む築地回廊が、朝堂院北側の堀立柱塀に接続した可能性があるという。太極殿院の北東隅では回廊築造時の足場跡も見つかった。
 ◈現代、2025年4月、京都府教育委員会は、2月に内裏付近で奈良時代、山城国分寺の食堂院(じきどういん)とみられる建物跡が発見されたと発表した。
 同様の施設としては、東大寺、西大寺などにも複数の建物が南北に並ぶ食堂院があり、同様の施設だった可能性がある。国分寺跡での確認は初めてになり、全国の古代寺院と比べても最大級の規模になるという。
 調査では、大極殿院の北東部に広がる内裏東地区(400㎡)を調査した。巨大な礎石(70㎝)、その抜き取り穴が複数見つかった。柱跡は東西5本分(計13.2m)、南北3本分(計5.4m)が見つかり、南北に廂を持つ左右対称の大規模な建物(東西38.1m、南北10.8m)になるという。建物は、食事を調理した大炊殿(おおいどの)跡とみられている。
 過去の調査では、南側から方角が同じ建物跡と北に延びる廊下状の遺構が見つかっており、2棟は連結する一体の建物だったとみられている。
◆鹿背山 鹿背山(かせやま)は、木津川を隔てて現在地の南西にある。布当山(ふたぎやま)、大野山とも呼ばれた。恭仁京は、この山を隔てて右京、左京に分けられていたという。
 歌枕にもなっている。「鹿背の山木立を繁み朝去らず来鳴きとよもすうぐひすの声」(『万葉集』雑歌、田辺福麻呂、一〇五七)。
◆神雄寺跡 神雄寺跡(かみおでら-あと)(史跡名勝天然記念物)は、木津川市にあり、木津と奈良にまたがる平野部にある奈良山丘陵北東端に位置している。奈良時代中期、8世紀中頃-9世紀初頭に、恭仁京の南端に存在した山林寺院であり、文献資料には現れていない。仏堂、多重塔/多宝塔、礼堂が建てられ、9世紀初頭までには廃絶し、塔は10世紀まで存続した。
 発掘調査によると、恭仁京右京南端付近の天神山丘陵南斜面(寺域200m四方)で、8世紀中頃の建物5棟・流路・井戸1基が見つかっている。丘陵裾部の平坦面に小型の仏堂(4.9m×4.5m)が建ち、須弥壇(しゅみだん)をもつ礎石建だった。周辺からは大量の塑像片・塼仏片が見つかり、須弥壇には等身大の四天王塑像が配置され、内壁に塼仏を張り付けていたとみられる。ほか、方一間の小型の多重塔/多宝塔、谷部には、仏堂と中心軸を合わせた掘立柱建物の礼堂(東西3間・南北2間)・流路があった。
 礼堂前は広場であり、流路跡からは土師器の灯明皿(とうみょう-ざら)5000点以上が出土した。灯心の痕跡が1カ所あるものが大半だった。上二句が『万葉集』に所収されたものと一致する歌が書かれた歌木簡、楽器、彩釉山水陶器、緑釉・三彩陶器,墨書土器なども出土した。皿の中には「浄」「悔過(けか)」と墨書されたものもあった。
 歌の詠唱を伴う仏教儀式の燃灯供養(ねんとう-くよう)、悔過法要(けか-ほうよう)などが行われたとみられる。「神雄寺」と書かれた墨書土器も多数出土し、読み方は不明で、「かみおでら」「かんのうでら」「かんのうじ」「じんゆうじ」「かむのをでら」などの可能性がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』、『南山城の古寺』、『京都・山城寺院神社大事典』、『相楽歴史散歩』、『京都の地名検証』、『京都の地名検証 3』、ウェブサイト「太極殿院の探求-40年以上にわたる試行錯誤-京都府教育委員会」、ウェブサイト「文化遺産データベース-文化庁」、ウェブサイト「長岡京 小倉山荘」、ウェブサイト「聖武天皇と国土経営」、ウェブサイト「産經新聞2025年2月6日付」、ウェブサイト「朝日新聞2025年2月4日付」、「朝日新聞2025年5月8日付」、ウェブサイト「木津川町」、ウェブサイト「コトバンク」


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山城国分寺跡(恭仁京宮跡) 京都府木津川市加茂町例幣(れいへい)
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