正法寺 (和束町)
Shoho-ji Temple
 正法寺  正法寺 
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勅使門


勅使門


勅使門
 和束町(わづか)は周囲を山に囲まれ、山頂まで茶畑が広がる。町は「茶源郷」ともいわれている。
 正法寺(しょうほうじ)は、仏法寺山を背にして開かれた。参道、境内に数多くの楓が植えられ紅葉の名所としても知られる。 
 臨済宗永源寺派、本尊は釈迦牟尼。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 奈良時代、744年、若くして急逝した安積(あさか)親王は当地に葬られた。その冥福を祈るために、行基を開基として開創されたという。「正法禅寺」、「幡(はた)寺」、「幡法寺」、「仏法(ぶっぽう)寺」、「釋音寺」とも呼ばれた。仏法寺山にあり、寺領多く、創建当初は大伽藍が建ち並んでいたという。古くは真言宗だった。(「雍州府志」「京都府相楽郡誌」)
 南北朝時代、元弘・建武年間(1331-1338)、寺院は度々、武将の陣営になる。寺領も奪われて荒廃した。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、衰退した。
 江戸時代、1644年、正保年間(1644-1648)とも、仏光寺城主・田村氏(田村貞清)が、山麓にあった旧塔「指雲寮」の跡地に茅庵を営んだ。仏法寺山の古堂を現在地に移して仏堂とした。近江・永源寺の如雪文巌(にょせつ もんがん)を請じて中興し、臨済宗永源寺派に改める。第108代・後水尾天皇の中宮・東福門院が帰依し、境内山林を寄付した。
 1656年、寺号を正法寺と改める。
 1665年、東福門院は四脚門を寄進した。
行基 奈良時代の僧・行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668/667-749)。河内国の人。父は高志才智、母は蜂田古爾比売。681年/682年、出家、官大寺で法相宗などを学ぶ。691年、高宮寺で具足戒を受ける。畿内に道場、寺を建立、溜池、溝・堀、架橋、困窮者の布施屋建設などの社会事業を行う。704年、生家を家原寺とし住した。717年、民衆煽動と僧尼令に反した寺外活動の咎で詔により弾圧を受ける。731年、弾圧を解かれる。732年、河内国狭山下池の築造に関わる。734年、東大寺大仏建立の詔が発布、勧進の任を務めた。736年、インド出身の僧・菩提僊那一行来日に際し大宰府で迎えた。738年、朝廷より行基大徳の称号が授与される。740年以降、東大寺大仏建立に協力する。741年、聖武天皇と恭仁京郊外の泉橋院で会見する。743年、東大寺大仏造営の勧進になる。745年、朝廷より日本初の大僧正位を授けられる。菅原寺(喜光寺)で亡くなる。地図の行基図を作成したという。東大寺「四聖」の一人。
◆安積親王 奈良時代の皇族・安積親王(あさか しんのう、728?‐744)。第45代・聖武天皇の第2皇子。母は県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)。同腹姉妹に井上内親王(白壁王の妃)、不破内親王(塩焼王の室)。718年、聖武天皇の正妻・光明子(こうみょうし、藤原不比等の娘)は阿倍内親王(後の第46代・孝謙天皇、第48代・称徳天皇)を産む。727年、基親王(もといおう)を産んだ。同年、基親王は皇太子に立てられた。だが、728年、没する。この頃、聖武天皇の唯一の男児・安積親王が生まれたという。安積親王は最も有力な皇位継承者にもかかわらず、太子に立てられなかった。736年、斎王の姉・井上内親王のために写経を行う。738年、光明皇后の娘・阿倍内親王が立太子になる。743年、安積親王は、恭仁京の藤原八束の邸で宴を開き、内舎人・大伴家持(おおとも の やかもち)も出席した。744年、安積親王は聖武天皇の難波行幸に従う。桜井頓宮(東大阪市)から恭仁京(加茂町)に引き返し、2日後に急逝した。死因は脚気のためとされる。17歳。墓は、正法寺の西北、太鼓山(たいこやま、和束町)にある。
 大伴家持は、安積親王を追悼し、『万葉集』(第3巻)に2篇(6首)の挽歌を残す。744年の薨後三七(さんしち)日に作られた長歌一首「かけまくも あやにかしこし 言はまくも ゆゆしきかも 吾王(おおきみ) 皇子(みこ)の命(みこと) 万代(よろづよ)に 食したまはまし」。返歌1首に「我(わ)が大君(おおきみ) 天(あめ)知らさむと 思はねば おほそに見ける 和束杣山(わづかそまやま)」。
 この頃、聖武天皇、元正上皇(第44代)と光明皇后、橘諸兄、藤原仲麻呂の対立も起きる。安積親王の死について、藤原仲麻呂、その妻・袁比良(おひら)らによる毒殺説もある。729年、藤原氏が長屋王の変を起こし、光明子を皇后に立てることを強行したのも、基親王が夭逝し、安積親王が生まれたためともいわれる。
◆如雪文巌 江戸時代の臨済宗の僧・如雪文巌(にょせつ もんがん、1601-1671)。阿波の生まれ。密教を学び灌頂を受ける。後、近江・永源寺の一糸文守(いっし ぶんしゅ)に師事、法をつぐ。1644年、正保年間(1644-1648)、和束・正法寺の中興開山になる。1646年、文守没後に永源寺の住持。
◆東福門院 江戸時代前期の第108代・後水尾天皇の中宮東福門院(1607-1678)。江戸幕府2代将軍・徳川秀忠と御台所達子(浅井長政3女、お江与の方、崇源院)の娘・和子(まさこ)として江戸に生まれた。 1620年、画策により14歳で入内したことにより、禁裏の財政を支えることになる。2皇子5皇女を生み、1624年に中宮となる。1629年、天皇が 第2皇女・興子内親王(第104代の女帝・明正天皇)に突然の譲位をしたことにより、院号宣下を受けた。その後、第110代・後光明天皇、第111代・後 西天皇、第112代・霊元天皇の3天皇の養母となる。墓所は泉涌寺内月輪陵にある。
◆仏像 東福門院の念持仏とされる「聖観世音坐像」が安置されている。
◆陵墓 安積親王の和束陵墓は、正法寺の西北500mにある太鼓山(たいこやま)頂上にある。丘陵に円墳が築かれ、現在は、山頂を残して茶畑が広がる。
 陵墓については諸説ある。近代、1878年に、和束陵墓と決められた。和束陵墓が有力と見られるのは、陵墓近くに安積親王の冥福を祈るために開かれたという正法寺がある。天平時代、この地が聖武天皇が造営した恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)から、天皇が近江国に営んだ離宮「紫香楽宮(しがらきのみや)」に通じる「恭仁京東北道」に沿ってあり、交通の要衝地だったことなどが挙げられている。陵墓の面積988㎡、径8m、高さ1.5m、参道92m。
◆紅葉 参道、境内に多くのヤマモミジが植えられている。これらは、永源寺から移植されたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 
*参考文献 『和束町史』『京都府の地名』『雍州府志』『京都府の歴史散歩 下』


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勅使門

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本堂

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本堂

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鐘楼

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【参照】和束墓


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【参照】和束町の茶畑

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