霊源院 〔建仁寺〕 (京都市東山区) 
Reigen-in Temple
霊源院 霊源院 
50音索引  Home 50音索引  Home


山門、方丈










「妙喜世界」の扁額



「関」



方丈


一休宗純筆墨蹟「錦心繍口向人開」



茶室



茶室



もう一つの茶室


方丈、庭






庭、飛石、降り蹲踞



 建仁寺境内の南東に塔頭・霊源院(れいげんいん)がある。京都最古の禅寺といわれている。妙喜世界(妙喜庵)、霊源軒(霊源院)の2つの寺院が併合されている。
 「建仁寺の学問面」の中核を担った当院からは、室町時代の五山文学を代表する学僧が多数輩出した。 
 臨済宗建仁寺派、本尊は薬師如来。
◆歴史年表 1358年、中巌円月(ちゅうがん-えんげつ)が「妙喜世界」を京都五山の一つ萬寿寺(下京区万寿寺町付近、現在は東福寺塔頭の一つ)境内に創建した。
 1362年、中巌は、上野・吉祥寺に戻る。その後、建仁寺住持公帖(こうじょう、官寺住持の任命書)が届き再び上洛した。建仁寺境内に「妙喜世界」を移築した。
 1368年、中巌は、「妙喜世界」で没した。「妙喜世界」は「妙喜庵」として改号される。中巌は、鎌倉・建長寺の梅洲庵にも分塔される。
 室町時代、応永年間(1394-1428)初期、1400年頃、一庵一麟(いちあん-いちりん)が、両足院開基・龍山徳見(りゅうさん-とくけん)を勧請開山として創建したという。当初は「霊泉院」と称した。また、龍山は、建仁寺171世・瑞巌龍惺(ずいがん-りゅうせい)管長の軒号「霊源」に因み、院内に「霊源軒」を建立した。また、在先希譲(ざいせん-きじょう)により、「霊源院」に改めたともいう。
 鎌倉時代末-室町時代、当院は五山文学の寺院の一つとされ、「建仁寺の学問面」の中核寺院になる。漢文学・五山文学の最高峰寺院とされた。
 室町時代、天文年間(1532-1555)、天文の大火により焼失する。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、柳沢(柳原)元政(堅物)により再建された。かつて院内に建立されていた「霊源軒」の名に因んで「霊源院」と改号された。
 近代、1868-1870年、廃仏毀釈の中で、塔頭・旧妙喜庵跡地に霊源院を移転した。以降は「霊源院」として併合する。
 1872年、境内上知になり、旧地を窮民産業所(祇園町南)敷地に譲る。売却費は窮民産業所に寄付したともいう。霊源院は、ほかの妙喜庵跡(現在地)に移る。
◆中巌円月 鎌倉時代-南北朝期の臨済宗の僧・中巌円月(ちゅうがん-えんげつ、1300-1375)。相模の生れ。中正子、東海一子(いちおうし)、俗姓は土屋氏。14歳頃から詩文を作り、中国語を修得した。密教を学び、寿福寺の嶮崖(けんがい)巧安、曹洞宗宏智(わんし)派の円覚寺の来朝僧・東明慧日(とうみょう-えにち)に参じて曹洞宗に帰した。来朝僧・霊山(りんざん)道隠、永平寺の義雲(ぎうん)、南禅寺・虎関師錬(こかん-しれん)に師事した。1324年、入元し、古林清茂(くりん-せいむ)、臨済宗大慧(だいえ)派の東陽徳輝(とうよう-てひ)などに参じ法を嗣いだ。1332年、帰国した。1339年、上野に吉祥寺を開創する。万寿寺(相模、豊後、京都) 、建仁寺、等持寺、鎌倉・建長寺などの住持になる。建仁寺に退居した。
 初期の代表的な五山文学僧で、後の五山文学に大きな影響を与えた。朱子学の第一人者、漢文文体の四六文の学習に力を注いだ。著『東海一漚(いちおう)集』など。諡号は仏種慧済(ぶっしゅ-えさい)禅師。
◆一庵一麟 南北朝時代-室町時代の僧・一庵一麟(いちあん-いちりん、1329-1407)。天祥一麟。九条道教の子。龍山徳見(りゅうさん-とくけん)の法嗣になる。薩摩・大願寺、万寿寺、建仁寺、天竜寺、南禅寺の住持を歴任した。応永年間(1394-1428)初期、霊泉院(霊源院)を創建した。文筆に秀でた。
◆在先希譲 南北朝時代-室町時代の僧・在先希譲(ざいせん-きじょう、1335-1403)。越中の生まれ。竜泉冷淬(りゅうせん-りょうずい)の法嗣。頑石曇生(がんせき-どんしょう)、月心慶円らに学ぶ。山城・三聖寺、普門寺、東福寺の住持、東福寺・海蔵院に退居した。
◆龍山徳見 鎌倉時代の僧・龍山徳見(りゅうさん-とくけん、1284-1358)。下総国に生まれた。鎌倉・寿福寺の寂庵上昭に師事し出家、円覚寺の渡来僧・一山一寧(いっさん-いちねい)に参禅する。元に渡り、天童山の東岩浄日、古林清茂などに参禅した。黄龍、栄西などに臨済宗を学び、兜率寺に住した。当時、中国で衰微していた臨済宗黄龍派を中興した。元での40年の滞在の後、1349年、帰国し、足利尊氏の弟・足利直義の招きにより、建仁寺、天龍寺、南禅寺に住した。漢詩文に優れた。建仁寺・知足院に葬られる。
◆瑞巌龍惺 室町時代の臨済宗の僧・瑞巌龍惺(ずいがん-りゅうせい、1384-1460)。和泉の生まれ。建仁寺・一庵一麟(いちあん-いちりん)に師事し、その法嗣になる。建仁寺171世、南禅寺の住持。法名は竜章。道号は仲建。
◆慕哲龍攀 室町時代の臨済宗の僧・慕哲龍攀(ぼてつ-りゅうはん、?-?)。東下総守師氏の子。兄・江西龍派(こうせい-りゅうは)とともに木蛇寺で出家し、建仁寺住持になる。漢詩に優れ、幼い一休宗純(いっきゅう-そうじゅん)に漢詩を教えた。臨済宗黄龍派。
◆柳沢元政
 室町時代-江戸時代初期の武将・柳沢元政(やなぎさわ-もとまさ、1536-1613)。柳沢。公家・藤原北家の分流の柳原新右衛門の子。義弟は僧・虚応円耳(こおう-えんに)。12代将軍・足利義晴、13代・義輝、15代・義昭に仕えた。1569年、本圀寺で三好三人衆の襲撃を受け奮戦して義昭を守った。(本圀寺の変)。1573年、義昭が織田信長との対立により京都から追放され、元政らは従い備後国鞆鞆城に入城し、毛利輝元の庇護を受けた。義昭への庇護と引き換えに毛利氏に出仕した。義昭の使者として、1584年、肥前国・龍造寺政家、1585年、薩摩国・島津義久と交渉した。1592年、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に家臣に抜擢された。1593年、秀吉から豊臣姓を下賜され、従五位下、監物に叙任された。秀吉の命により石見銀山の鉱山奉行も務めた。1598年、秀吉の死去後、毛利氏の家臣に復帰した。1600年、関ヶ原の戦い後、毛利氏の防長移封に従う。後に周防国の山口高嶺城の普請を命じられた。1613年、周防国山口で没した。
◆仏像・木像 ◈「木造中巌円月坐像 」(重文)は、 南北朝時代(14世紀)作になる。作者は七条仏師康俊、その周辺仏師作とみられている。中巌の晩年、没後間もない時期の製作とみられる。頭部は写実的で、当時の肖像彫刻の傑作といわれている。木像、玉眼。
 ◈「毘沙門天立像」(京都府登録文化財)は、鎌倉時代(13世紀)作になる。中巌円月坐像(重文)の胎内に納められていた。現代、1996年の坐像修理の際に発見された。
 慶派仏師作による。動きのある衣の表現があり、左手に水晶の玉を掲げる。その中に最澄(767-822)が持ち帰ったという仏舎利が納められている。鋭い眼光を放ち、左腰を傾ける。胸甲を吊る帯部分は金属製による。
 木造、彩色、玉眼、像高37.5㎝。京都国立博物館寄託。
◆建築 「本堂」がある。
◆茶室 ◈茶室「也足軒(やそくけん)」は、近代、1912年に建てられた。四畳半、二畳台目、方丈内に躙口が南面している。珍しい例という。
 ◈茶室「妙喜庵」は方丈南にある。壁の一面に花頭窓が開けられている。一畳台目であり、点前に道具畳、客が座る一畳だけに切り詰められ、「究極の茶室」とされている。
◆文化財 室町時代、1474年、正宗龍統筆、紙本墨書「与龍崇之安名」。
 室町時代、1535年、正宗龍統筆、紙本墨書「与龍孫之安名」。
 室町時代、1515年、正宗龍統筆、紙本墨書「常庵龍之安名」。
 室町時代、1443年、足利義勝筆、絹本墨画「達磨図 江西龍派賛」。
 室町時代(15世紀)、紙本淡彩「文殊像 江西龍派賛」。
 竜泉冷淬(?-1366)の詩文集『松山集』草稿本(重文)。
 安土・桃山時代、1599年作の掛軸「柳沢元政像」
 江戸時代、1611年作の掛軸「元政の妻」
 「一休禅師墨書」。当院に五山派の代表的学僧が多く住した。大徳寺の幼年期の一休宗純(1394-1481)も当院の慕哲龍攀より作詩を学んだという。
 7代将軍・足利義勝が、10歳の時に家臣に描き与えたという墨画「達磨図」がある。
 水墨画「縄衣文殊像」、「柳澤元政夫妻像」。
  「妙喜世界」の扁額が掛かる。阿閦(あしゅく)仏は、「東方妙喜世界(とうほうみょうきせかい)」、東方浄土に住むとされる。五智如来の一仏であり、触地印(右手を下げ指先が地に触れる)を結び、左手で衣の端を握る。
 
「関」の墨蹟がある。玄関(げんかん)の意味になる。玄関は禅宗の寺院建築より生まれた。「碧巌録(へきがんろく)」によれば、玄関とは、玄妙なる関の意味であり、禅門に入り厳しい修業に耐える決意を意味している。玄関は行の入り口でありまた出口にもなる。「関」の一字は常に初心に還ることを自戒させている。
◆庭園 「甘露庭(かんろてい)」は、方丈の南、西にある。枯山水式庭園であり、仏陀釈尊の生誕から入滅までを表現している。苔地に、石、飛石、蹲踞、松、甘茶、花梨などの植栽がある。
◆五山文学 五山文学は、鎌倉時代末期-室町時代末期に京都五山・鎌倉五山の禅僧により担われた漢詩文、法語、日記、語録、随筆,詩と四六文(駢文)などの創作活動をいう。七言詩、五言詩、律詩(中国の古典詩)が多かった。
 鎌倉時代に学僧が渡宋し、中国の禅僧の渡来により僧の間に漢詩文が流行した。宋僧・一山一寧(いっさん-いちねい、1247-1317) 、虎関師錬(こかん-しれん、1278-1346) 、雪村友梅(せっそん-ゆうばい、1290-1347)、中巌円月(ちゅうがん-えんげつ、1300-1375) 、夢窓疎石(むそう-そせき、1275-1351)らが現れた。
 室町幕府の庇護を受けた五山派の官寺では、義堂周信(ぎどう-しゅうしん、1325-1388) 、絶海中津(ぜっかい-ちゅうしん、1336-1405) らにより盛んになる。朱子学の移入紹介、経書、漢詩の講義、書物も出版われた。
 室町時代中期以後は、質的低下を招き、室町幕府の衰退とともに衰え、江戸時代初期には消滅した。


*普段は非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都の禅寺散歩』『旧版 古寺巡礼京都 6 建仁寺』『建仁寺』『建仁寺 建仁寺と栄西禅師』『京都・山城寺院神社大事典』『京の茶室 東山編』『第49回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 ガイドブック』 、ウェブサイト「霊源院」、ウェブサイト「文化庁 文化財データベース」、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺建仁寺     周辺      関連       
霊源院〔建仁寺〕 〒605-0811 京都市東山区小松町584,大和大路四条下ル (建仁寺境内)  
50音索引  Home   50音索引  Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光