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饅頭屋町 (京都市中京区) Manjuya-cho |
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饅頭屋町 | 饅頭屋町 |
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![]() 現在の饅頭屋町付近、巨大なビルが林立し、町名表示板すら見当たらなかった。 |
烏丸通三条を下ったビル街に「饅頭屋町(まんじゅや-ちょう)」という地名が残る。かつて、この地に、大繁昌した饅頭屋があり地名の由来になったという。 ◆歴史年表 平安時代、この地は、平安京の左京四三坊四保九町東・十六町西に当たる。 平安時代後期、付近には、公卿・藤原基隆(1075-1132)邸 、公卿・藤原信通(1091-1120)邸があった。(『殿暦』) 室町時代、1477年、京都の塩瀬家は、応仁・文明の乱(1467-1477)後、京都の現在地(烏丸通三条下ル)に戻る。饅頭屋の屋号を「塩瀬」として、宮中、将軍家に出入りを許され商いは大繁昌した。 1491年、三条六角堂の西に「饅頭屋次郎」の店があったという。(『蓮成院記録』) 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)以前、付近は、「阿弥陀堂前ノ町」と呼ばれたという。頂法寺(六角堂)の敷地内であり、寺の阿弥陀堂西門が開いていたという。(『坊目誌』) 1571年、「まんちうや町」と記されている。(立入宗継文書「上下京御膳方御月賄米寄帳」) 1587年、付近の西側に23戸、東側に14戸あった。(饅頭屋町文書「饅頭屋町軒別各坪数」) 江戸時代、1637年、「まんぢうし丁」と記されている。「饅頭師丁」の意味という。(『洛中絵図』) 1659年、塩瀬清兵衛が江戸に上り饅頭屋の店(日本橋一丁目)を出す。江戸城の御用を承る。 1672年、「万寿寺町」と記されている。(『洛中洛外大図』) 1685年、付近には饅頭屋のほか、絹類晒屋、絹布屋、馬借などがあった。(『京羽二重』) 1708年、付近には西側に17軒、東側に16軒あったという。(饅頭屋町文書「町屋間数書上」) 1719年、「町掟(案)」が残る。 1798年、京都の19代・饅頭屋九郎左衛門浄空が没し、塩瀬家は廃絶する。 ◆林 浄因 南北朝時代の渡来人・林 浄因(りん-じょういん、?-?)。男性。中国淅江省の生まれ。詩人・林和靖(りん-なせい)の末裔。1349年、禅僧・龍山徳見(りょうさん-とくけん)が元より帰国した際に来日した。徳見の俗弟子。奈良・漢国神社の社頭に住したという。国内初の饅頭を作り好評を博した。 漢国神社境内の林神社(饅頭の社)に菓祖神・林浄因命として祀られている。 ◆文林 寿郁 室町時代前期-中期の臨済宗の僧・文林 寿郁(ぶんりん-じゅいく/じゅいつ、1428-?)。男性。宋人・林浄因の曾孫。知足院3世。1428年、両足院を創建した。建仁寺137世。 ◆悦巌 東悆 室町時代中期-後期の臨済宗の僧・悦巌 東悆(えつがん-とうよ、1458-1530)。男性。道号は悦岩、悦岩、別号は西湖、六橋。父・林祥増、林浄因の後裔。西庵敬亮の法を嗣ぐ。両足院5世。1521年、建仁寺266世。著『悦岩和尚語録』、詩集『悦岩詩集』。72歳。 ◆饅頭屋 宗二 室町時代後期-安土・桃山時代の商人・学者・饅頭屋 宗二(まんじゅうや-そうじ、1498-1581)。男性。姓は塩瀬、林(はやし)。字は桂堂、号は林逸(りんいつ)、方生斎。京都の生まれ。林浄因の後裔。父・道太、子に僧・梅仙東逋(ばいせん-とうほ)。早くより奈良に住み、松永久秀の後援を受け饅頭屋を営む。連歌、和歌、漢学に親しみ、清原宣賢、三条西実隆、吉田兼右らに師事した。 牡丹花肖柏から古今伝授を受けた。蔵書家として知られた。著『源氏物語林逸抄』(54巻)、国語辞書『饅頭屋本節用集』。奈良に没した。84歳。 ◆和仲 東靖 室町時代後期の臨済宗の僧・和仲 東靖(わちゅう-とうせい、?-1563)。林浄因の後裔、両足院6世。吉田兼倶・月舟寿桂と引継がれた神道研究を継承した。 ◆塩瀬 宗味 安土・桃山時代の茶人・塩瀬(林) 宗味(?-?)。塩瀬家に生まれる。千利休の弟子。天正年間(1573-1592)、茶事を好み、茶巾を作り売った。「塩瀬の茶巾・帛紗(ふくさ)」として茶人に愛された。織物「塩瀬」の基になったという。豊臣秀吉に愛顧される。第108代・後水尾天皇より、「山城大掾(やましろ-だいじょう)」の称を許された。 ◆梅仙 東逋 安土・桃山時代-江戸時代前期の臨済宗の僧・梅仙 東逋(ばいせん-とうほ、?-?)。父・林宗二、林浄因の後裔。両足院7世。1566年、「抄物」の筆録者となる。1589年、建仁寺291世。1608年、一華院を両足院に併合する。81歳?。 ◆利峰 東鋭 江戸時代前期の臨済宗の僧・利峰 東鋭(りほう-とうえい、?-1643)。男性。奈良の生まれ。林浄因の後裔。1561年、両足院8世。1610年、建仁寺297世。1613年、南禅寺住持。1615年、「碩学」の栄誉を受ける。83歳?。 ◆饅頭 饅頭(まんじゅう)は、南北朝時代、1349年、禅僧の龍山徳見が元より帰国した際に、連れてきた宋人・林浄因(りん-じょういん)により日本にもたらされたという。林は徳見の俗弟子であり、浙江省杭州出身だった。 中国の本来の饅頭(まんとう)は肉饅頭を意味した。日本では肉食が許されない僧のために、饅頭は茶菓子として工夫される。小豆を煮つめ、甘葛の甘味と塩味を加え、餡を皮に包んで蒸した。形は、山房の傍の庵蔓樹の実を模したという。この今日の饅頭が新案された。 林浄因は、奈良に住し、日本で初めて餡入りの饅頭を作る。林家は、奈良・漢国神社(奈良市漢国町)近くに饅頭屋を開く。やがて饅頭は、寺院に集う上流階級の間で評判になる。室町時代、1460年、4代・惟天盛祐は京都に移った。以来、林家は、奈良の林家(南家)と京都の林家(北家)に別れる。 室町時代後期、1467年、京都の林家は、応仁・文明の乱(1467-1477)の戦火を逃れ、親戚のある三河国設楽郡塩瀬村に移る。この地の豪族・塩瀬(しおせ/しおぜ)家を頼り疎開し、姓も「塩瀬」に改めた。1477年、乱後、塩瀬家は京都に戻り、屋号を饅頭屋「塩瀬」として烏丸三条通下るに饅頭屋の店を構えた。 新たに饅頭の皮に山芋を混ぜて膨らす、「薯蕷(じょじょ)饅頭(上用饅頭、塩瀬饅頭)」の製法を輸入する。宮中、将軍家に出入りを許され、繁盛する。周辺の町名は饅頭屋町と呼ばれた。室町時代の第103代・後土御門天皇に献上、8代将軍・足利義政より、「日本第一番 本饅頭所 林氏塩瀬」の看板を贈られた。饅頭は、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康にも愛されたという。 江戸幕府開闢とともに、塩瀬家の源譽宋需は江戸に移る。徳川家康と林家(塩瀬家)は縁があったという。江戸時代前期、1615年の大坂夏の陣で、真田幸村に攻められた家康が逃げ込んだ先が、林浄因の奈良の居宅だったという。1659年、塩瀬清兵衛は江戸(日本橋一丁目)に店を出し、江戸城の御用を承る。近代、1868年、宮内省御用になった。 江戸時代後期、1798年に京都の塩瀬家は廃絶した。江戸の「塩瀬総本家」は、いまも営業を続けている。林浄因は、奈良・漢国(かんごう)神社境内社の林神社に祀られた。林家後裔からは五山僧も多く輩出している。 なお、饅頭の日本での起源について、南宋より帰国した臨済宗の僧・円爾(えんに)によるともいう。鎌倉時代、1241年に博多・承天寺を創建した際に、茶屋主人に伝授したともいう。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都市の地名』、『京都の地名検証』、ウェブサイト「漢國神社」、ウェブサイト「両足院」、ウェブサイト「塩瀬総本家」 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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