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毘沙門天堂 〔建仁寺・両足院〕 (京都市東山区) Bishamon-do Temple |
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毘沙門天堂 | 毘沙門天堂 |
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![]() 毘沙門天堂 ![]() ![]() ![]() ![]() 虎の狛犬 ![]() ![]() ![]() ![]() 香炉 ![]() 香炉、虎の彫り物 ![]() 香炉、百足の紋 ![]() ![]() ![]() |
両足院の北隣りに、両足院鎮守社の毘沙門天堂(びしゃもん-どう)が祀られている。 本尊の毘沙門天像は、御前立、脇侍に吉祥天、善膩師童子を配した三尊式になっている。賓頭盧尊者、不動明王も安置される。 本尊は、勝利、商売繁盛、合格祈願、良縁成就、誓願成就などの信仰を集める。 ◆歴史年表 年代不詳、本尊の毘沙門天像は、かつて鞍馬寺の毘沙門天の胎内仏だったという。 室町時代、1571年、織田信長の比叡山焼き討ちにより、尊像は室町将軍家の茶家・比喜多養清宅(上立売通新町東入)へ疎開した。鞍馬の僧房は、同家に3000両の借財があり、尊像は、同家に引き取られた。 安土・桃山時代、1600年、武将・黒田長政は関ヶ原の戦いの出陣に際して、尊像を内兜に納めて奮戦したという。戦勝したことから、以後、代々黒田家で信仰された。 近代、1877年頃、尊像は、等持院・北濱長老を通じ、両足院17世・朴宗東循に寄進される。 1888年、毘沙門堂を庫裡南に新築する。 1922年、毘沙門堂を境内西北方の現在地に移転する。 現代、1951年、毘沙門講が組織される。 1953年、台風13号により、毘沙門堂西北隅の土塀、石崖が崩壊する。 1954年、土塀、石垣を修復する。 近年、尊像は、「祇園の縁結び」として知られ、祇園の芸舞妓も参拝に訪れるという。 ◆黒田 長政 室町時代後期-江戸時代前期の武将・黒田 長政(くろだ-ながまさ、1568-1623)。男性。通称は松寿(しょうじゅ、松寿丸)、吉兵衛。播磨(兵庫県)の生まれ。父・黒田孝高(よしたか、如水)、母・櫛橋伊定の娘の長男。1577年、父・孝高が織田信長に属し、長政は10歳で人質として信長の許に送られる。近江・長浜城の羽柴秀吉の許で少年期を過ごした。1580年、父の許に返された。1582年、秀吉の中国攻めに従軍し初陣になる。1583年、賤ケ岳の戦いに従う。その戦功により河内国丹北郡を得る。1584年、小牧・長久手の戦で、和泉・岸和田城に拠り、根来・雑賀一揆を撃退した。その功により加増を受けた。1587年、九州攻めで方面軍の軍奉行を務め、その功により豊前国に移る。1589年、父・孝高から家督を継ぎ、豊前中津に父の所領豊前6郡を得た。従五位下・甲斐守に叙任された。初め粕屋(かすや)郡名島に入り、那珂(なか)郡警固(けご)村福崎に城を築き、祖先発祥の地・備前福岡に因み「福岡」と名付けた。1590年、小田原攻め、1592年-1598年、文禄・慶長の役で渡海し、碧蹄館(ヘキテイカン)の戦、蔚山(ウルサン)城の戦で戦功をあげた。1598年、秀吉没後、父とともに石田三成に反対した。1600年、関ヶ原の戦で父とともに東軍・徳川家康に属した。小早川秀秋を寝返らせるなどした。その功により、筑前一国を与えられ福岡城を築く。筑前福岡藩主黒田家初代になる。1603年、家康の参内拝賀に供奉し、従四位下・筑前守に叙任される。1614年、大坂冬の陣で江戸城に留められた。1615年、夏の陣で徳川秀忠隊に属した。 1623年、徳川秀忠、家光が参内のために上洛、二条城に泊った。長政は江戸より入洛し、報恩寺に宿泊する。持病発作のため報恩寺客殿で亡くなる。56歳。 墓は博多・崇福寺(福岡県)にある。 ◆比喜多養清 室町時代の将軍家・茶家の比喜多養清(?-?)。詳細不明。男性。家は、筑前・黒田家の京都御用達を務めた。 ◆毘沙門堂・長政 安土・桃山時代、1600年の関ヶ原の戦いで長政は、出陣に際し、現・毘沙門堂の尊像を内兜に納めて奮戦したという。家康により戦功が認められ、豊前中津18万石から筑前福岡52万石に封じられたという。 ◆狛虎 境内に狛虎がある。 ◆年間行事 寅市(手作り市)(8月以外の毎月第2日曜日)が催されている。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考資料・資料 ウェブサイト「両足院」、『京都大事典』 、『京都戦国武将の寺をゆく』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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