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山国神社 (京都市右京区) Yamaguni-jinja Shrine |
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山国神社 | 山国神社 |
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![]() 鳥居までの参道 ![]() ![]() ![]() 拝殿 ![]() ![]() 本殿 ![]() 春日神社 ![]() 蛭子神社 ![]() 八幡神社 ![]() 神饌所 ![]() ![]() ![]() 社紋、丸に二文字 ![]() 社殿すぐ裏(南)を流れる桂川 ![]() 【参照】時代祭行列(10月22日)に参加する維新勤王隊列の鼓笛隊。京都御所 |
京北山国の山国神社(やまぐに-じんじゃ)は、桂川河畔にある。延喜式内社であり、山国郷の一宮とされた。 祭神は、 大己貴命(おおなむちのみこと)(大国主命 [おおくにぬしのみこと] )を祀る。 境内社として、天児屋根命 [あめのこやねのみこと]を祀る春日神社、蛭児命 [ひるこのみこと]を祀る蛭子神社、八幡神社、飛地境内社の御霊神社がある。 ◆歴史年表 奈良時代、宝亀年間(770-781)、宮内省の大工寮修理職(もくりょう-しゅりしき)により本殿が建てられている。祭主として官僚・和気清麿呂(わけ-の-きよまろ、733-799)が任じられ。 平安時代、794年、平安遷都にあたり、山国郷は御杣御料地(みそま-ごりょうち )に定められた。 1016年、神位正一位、菊花紋を授けられ祈願所になる。春日、加茂、御霊、日吉の四社が建立され、五社明神になった。 治承・寿永の乱(源平の戦い、1180-1185)により、社殿は破壊される。 鎌倉時代、1233年、再建されている。 南北朝時代、1333年、第96代・後醍醐天皇を中心とした鎌倉幕府討幕の元弘の乱で、社殿は破壊された。 室町時代、1399年、室町幕府官領・細川頼之(1329-1392)が当地に隠棲し、復旧している。この時、室町幕府3代将軍・足利義満(1358-1408)が、「丸に二引」の徽章を奉納し、以後、当社の紋章になった。 安土・桃山時代、1596年、再建されている。 江戸時代、1737年、現在の社殿が建立される。 1867年、藤野斎(ふじの-いつき)が宮司になる。 近代、1868年、戊辰戦争で、山国村の郷士が山国隊を結成し当社より出征した。 現代、2003年、山国隊を模した山国隊軍楽は、京都府の無形民俗文化財に指定された。 ◆藤野 斎 江戸時代後期-近代の郷士・藤野 斎(ふじの-いつき、1831-1903) 。男性。幼名は縫殿介。父・丹波桑田郡山国郷の名主・藤野五右衛門の長男。牧野やなとの間に映画監督・牧野省三が生まれた。常照皇寺の瑞厳和尚に手習う。21歳で京都に出て儒者・北脇淡水に師事した。山本長門介、小山敬輔に医学を学んだ。帰郷し、漢方医、酒造りを行う。寺子屋を開き子どもらに教えた。1867年、山国神社の神職(宮座)になる。1868年、従五位下近江守に叙された。山国隊34人を組織し、フランス式調練を行う。山国隊は、東山道軍第十三番隊として鳥取藩に属し、新政府軍の東征に従軍した。73歳。 ◆文化財 ◈「異国渡海船路積図」(京都市指定有形文化財)。 ◈「大明地理之図」(京都市文化財)。 ◈「剣鉾」3基があり保管されている。 「一号」(八重菊の意匠錺・赤い吹き散)」、「二号」(牡丹の意匠錺)」、「三号」(菊の意匠錺)」であり、いずれにも「式内山国神社」の額がある。 ◆御杣御料地 平安時代前期、794年の平安遷都にあたり、山国郷は禁裏の「御杣御料地(みそま-ごりょうち )」に定められ、山国杣が営まれた。山林は、大堰川(おおいがわ、上桂川)上流の京北町山国・黒田、左京区花背・広河原を含んでいた。 律令制下、山国杣には省衛府諸寮官人16人が配置された。後に禁裏重代の仕官20人が増員される。この36人は52の子家に分かれ、計88人が「五三寸三尋荒木(ごさんずん-みひろ-あらぎ)」といわれる材木(荒木)を貢納したという。 大内裏宮殿の造営、大嘗祭(だいじょうさい)に使われる悠紀殿(ゆきでん)、主基殿(すきでん)の二つの祭殿用材であり、杉、檜皮、桧、松などが山から斬り出されていた。荒木木材は、大堰川での筏流しにより都に送られた。 また、この地の特産品である鮎、松茸なども朝廷に献上され、皇室との繋がりが深かった。 中世(鎌倉時代-室町時代)には、これらを荘官・鳥居氏が管理していた。 ◆山国隊 江戸時代末期、1867年、天皇親政(王政復古の大号令)が宣言され、旧朝幕体制は廃絶になり、新政府が発足した。新政府軍、勤皇隊の総司令官(鎮撫使)・西園寺公望(1849-1940)により募兵要請が行われた。 山国の名主らがこれに呼応し、旧1月に官軍派の農兵隊「維新勤皇山国隊」が結成された。隊名は参与・岩倉具視(1825-1883)によるという。中心に、藤野斎、水口市之進、河原林安左衛門らがいた。西軍、東軍の2軍、5日間で83人(91人とも)が集う。藤野は、隊士34人を嵯峨野でフランス式調練した。農民たちは猟師も兼ねており、体力も優れ、銃器の扱いにも慣れていた。陣羽織、鳥毛、脚絆、草履の井出達で、笛と太鼓に歩調を合わせて行進した。 旧1月11日、隊は山国神社より出陣する。隊は、東山道軍で因幡鳥取藩に付属した。鳥取藩兵参謀・山国隊隊長・河田左久馬(かわた-さくま、1828-1897)が任じられる。官軍としての初陣は、甲州勝沼で旧幕府軍、近藤勇の甲陽鎮撫隊との戦いだった。山国隊が勝利した。続いて、野州、1868年旧5月の上野戦争では彰義隊と交戦した。宇都宮の戦いにも参戦している。なお、水口隊は御所・市中の警護、戦費調達を行っている。 各地の戦線で、隊士7人の犠牲者(旧4月栃木・安塚村で戦死3人、そのほか行方不明1人、病死3人)を出しながらも、1868年旧11月に大総督・有栖川宮の凱旋隊に加わり帰郷した。1869年旧2月21日に山国神社に凱旋参拝している。1870年に山国隊は解散した。 1895年、遷都1100年の記念の平安神宮時代祭で、山国隊が先頭を行進し、以後25年間続いた。現在も、山国神社の還幸祭、時代祭行列(10月22日)では、山国隊軍楽保存会による維新勤王隊列の鼓笛隊が先頭を行進している。 ◆鳥居町 町名の鳥居町は、山国神社の鳥居に由来する。 ◆樹木 境内のスギ木立は、人工林の北山杉を背景として、1997年の「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「山国神社」として選定された。 ◆祭礼 「神幸祭」(10月例祭の前日)では、夕刻に始まり、飛び地境内社・御霊神社(比賀江)から神輿・剣鉾3基が発御する。トラックの荷台に載せられ、氏子地域の神社を巡行し本社に向かう。 「例祭・還幸祭」(10月第2日曜日)では、午前に本殿で神事が行われ、午後に御霊神社へ還御の行列が発する。山国隊軍楽の鼓笛行進の奉納があり、剣鉾は2人1組になり鉾差しを行う。 2003年に、山国隊を模した山国隊軍楽は、京都府の無形民俗文化財に指定された。 ◆年間行事 神幸祭(御霊神社を発御)(10月例祭の前日)、 例祭・還幸祭(10月第2日曜日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都の地名検証 3』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、『京都大事典』、『京都の寺社505を歩く 下』、『剣鉾まつり』、『京都 神社と寺院の森』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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