藤原璋子 花園西陵 (京都市右京区)  
mausoleum of Empress Fujiwara no, Shoshi
藤原璋子 花園西陵  藤原璋子 花園西陵
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花園西陵


花園西陵
 法金剛院の北西に花園西陵(はなぞの の にしのみささぎ)がある。
 平安時代の第74代・鳥羽天皇の中宮・待賢門院璋子(たいけんもんいん の しょうし、藤原璋子)が葬られている。藤原璋子花園西陵とも呼ばれている。
◆歴史年表 平安時代、1145年、8月22日、待賢門院璋子が亡くなる。法金剛院境内北端の三昧堂地下石室に葬られる。
 中世(鎌倉時代-室町時代)以降、陵の所在地は不明になった。
 近代、1871年、茶畑より石棺が発掘され、瓦(法華経を彫刻)が出土し、陵に確定された。
◆待賢門院璋子 平安時代の待賢門院璋子(たいけんもんいん の しょうし/しょうこ/たまこ、1101-1145)。藤原璋子。父は正二位行権大納言・藤原公実(きんざね)の末子、母は左中弁・藤原隆方娘で堀河・鳥羽天皇の乳母・光子。幼い頃より、第72代・白河天皇と寵姫・祇園女御(ぎおんにょうご)の養女として育てられた。白河上皇の猶子になり、院御所に住した。白河上皇は、璋子を藤原忠通に娶わせようとした。忠通は断り、後の保元の乱の遠因になった。1117年、17歳で白河天皇の孫、第74代・鳥羽天皇に入内、女御、1118年、中宮になる。1119年、顕仁(あきひと)親王(第75代・崇徳天皇)が産まれる。ただ、顕仁親王は、白河法皇との間の子ともいわれている。鳥羽天皇は親王を「叔父子(おじご)」と呼び冷遇した。異説もある。璋子は6子を産んでいる。1123年、白河上皇は、顕仁親王を皇太子に立て、鳥羽天皇に譲位を迫った。5歳の顕仁親王(崇徳天皇)の即位により国母(こくも)に就く。1124年、24歳で待賢門院の称号を与えられ、女院になる。1127年、行真(まさひと)親王(第77代・後白河天皇)を産む。1129年、白河法皇の没後、皇子・覚性法親王を産む。1133年、白河法皇の火葬場(衣笠山)に参る。1134年、白河法皇が遺言で禁じていた藤原勲子(泰子、高陽院)が中宮になる。さらに、美貌の藤原得子(美福門院)が入内し、鳥羽天皇の寵愛を受けた。待賢門院は、子・禧子内親王も喪い、病苦に苦しむ。1142年、得子呪詛事件が発覚する。美福門院との間の子・体仁親王(第76代・近衛天皇)が皇位継承した。待賢門院は次第に権勢を失う。自ら発願し創建した法金剛院で落飾し、真如法と称した。1143年、第3皇子・君仁親王を喪う。1145年、兄・藤原実行の三条高倉第で、鳥羽法皇に見守られて亡くなる。法金剛院境内北端の三昧堂地下石室に葬られた。
 箏の琴(十三絃琴)の名手として知られた。女房三十六歌仙の一人。『金葉和歌集』に入集。家集『待賢門院堀河集』。西行との贈答歌もある。
 1155年、近衛天皇の夭折後、待賢門院が産んだ2人の子、後白河天皇と崇徳上皇の皇位継承争いが、1156年、保元の乱になった。
◆陵・墓 五位山北に待賢門院西陵がある。西面した小円墳になる。
 中世以降は所在不明になっていた。近代、1871年に茶畑より石棺が発掘され、瓦(法華経を彫刻)が出土し確定された。


72 白河天皇 (在位:1072-1086)→73 堀河天皇 (在位:1086-1107)→74 鳥羽天皇 (在位:1107-1123) →75 崇徳天皇 (在位:1123-1141)→76 近衛天皇 (在位:1141-1155)→77 後白河天皇 (在位:1155-1158)


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『歴代 天皇・皇后総覧』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 藤原璋子 花園西陵  〒616-8047 京都市右京区花園宮ノ上町22
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