榎木大明神・河原院址・籬(まがき)の島(森) (京都市下京区) 
Enoki-daimyojin Shrine,Kawarano-in-ato (former Kawarano-in site)
榎木大明神・河原院址 榎木大明神・河原院址 
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河原院址の碑


榎の大木


榎木大明神


榎木大明神


榎木大明神


榎木大明神


榎木大明神、エノキの古株
 五条大橋西詰南、高瀬川沿いに平安時代の源融(みなもと の とおる)の邸宅跡を示す「河原院址(かわらのいん あと)」の石標が立つ。
 かつて付近には、河原院が営まれ、庭園の中島の「籬(まがき)の島(森)」があったという。後に、鴨川の氾濫により埋没したという。 
 かつて森にあったという榎の大木と、近くには榎木大明神(えのき だいみょうじん)の小祠が祀られている。
◆歴史年表 平安時代前期、源融(822-895)は邸宅「河原院」を営む。敷地は、六条坊門小路(五条通)、七条坊門小路(正面通)の間、萬里小路(柳馬場通)、鴨川の間に囲まれた広大なものだった。邸内には、陸奥国塩竈の風景を模した庭園があった。難波江の潮水を運び入れ、塩焼きを楽しんだという。
 貞観年間(859-877)、現在地には八幡宮が建立される。「首途八幡」、「舟八幡」といわれた。
 895年、源融は河原院内で亡くなる。その後、子・昇(湛[たたう]とも)が相続した。その後、昇は宇多上皇(第59代)に献上し、仙洞御所(東六条院)になる。上皇はしばしば行幸する。後、融の亡霊が現れたるとの噂がたち、追悼会が催される。
 931年以降、上皇没後、融の三男の僧・仁康(にんこう)が河原院を寺院の「河原院(宇多院)」に改める。その後、院は詩歌宴遊の場としても使われる。
 1000年、仁康は、この地が鴨川の氾濫地だったため、祗陀林寺(上京区)を創建し本尊を遷した。祗陀林寺はその後、数度の火災で荒廃し、廃寺になる。
 平安時代中期、融の曽孫・安法法師(源趁)が住した。
 1155年、焼亡する。(『百錬抄』)
 1159年、焼亡した。(『百錬抄』)
 鎌倉時代、1202年、焼亡する。(『百錬抄』)
 南北朝時代、1364年、田楽が催される。(『師守記』)
 室町時代、1420年、田楽が催された。(『看聞御記』)
 応仁・文明の乱(1467-1477)により荒廃した。
 天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉の都市整備により、河原院旧地には多くの寺院が建てられる。付近は「下寺町(しもてらまち)」と呼ばれた。
 江戸時代、「河原院」跡地の一部に渉成園が造られた。 
 1614年、八幡宮は、高瀬川開削後に伴い、川の鎮守になる。
 1864年、八幡宮は焼失している。
 近代、1869年、八幡宮は廃社になった。
 1871年、河原院の故事にちなみ、「本塩竈町」の町名に改められる。
◆源融
 平安時代初期の公卿・源融(みなもと の とおる、822-895)。第52代・嵯峨天皇の第8皇子。母は大原全子(またこ)。河原左大臣と呼ばれた。元服後、義兄の第54代・ 仁明天皇の皇子となる。源の姓になり、856年、参議、872年、左大臣になる。880年、公卿・藤原基経が摂政になり隠遁生活に入る。河原院、宇治、嵯峨・棲霞観(せいかかん、清凉寺)の別業(別荘)で過した。風流三昧の生涯を送り、皇位に就くことはかなわなかった。『源氏物語』の光源氏、河原院は六条院のモデルとされる。 
 枳殻亭(渉成園)内に供養塔がある。
◆源昇 平安時代前期-中期の公卿・源昇(みなもと の のぼる、848-918)。源融の子、嵯峨源氏。蔵人頭、左中弁、895年、参議になる。のち大納言、民部卿を兼ねた。正三位、河原大納言とよばれた。
◆宇多天皇 平安時代の第59代・宇多天皇(うだ てんのう、867-931)。第58代・光孝天皇と班子女王(仲野親王の娘)の子。仁和寺第1世になる。884年、源姓により臣籍に下るが、887年、公卿・藤原基経の推挙により親王に復し即位した。基経は、阿衡(あこう)事件(887)により、天皇に抗し政務を怠業、半年後、天皇が譲歩し勅書を改めた。基経没後、天皇が菅原道真を重用したため、道真の太宰府左遷(901)につながった。899年、仁和寺で出家(空理、金剛覚)、太政法皇になり、法皇称の初例になる。東大寺で菩薩戒、901年、東寺で伝法灌頂を受ける。境内に御所を営み、亭子院、六条院にも住んだ。和歌や音楽を好んだ。琵琶の名手として知られた。天皇日記としての初例『宇多天皇日記』を著す。境内北の大内山陵に葬られた。
◆仁康 平安時代中期の僧・仁康(にんこう、?-?)。河原左大臣・源融の3男という。天台座主・良源の弟子。河原院(東六条院)の跡地に、991年、丈六釈迦仏を造立し、父の別荘跡地に安置した。1000年、祇陀林寺を創建し本尊を遷した。1019年、疫病を鎮める地蔵信仰を広める。
◆安法法師 平安時代中期の歌人・僧・安法法師(あんぽう ほうし、?-?)。源趁(みなもと の したごう)。源融の曾孫、父は源適(かなう)、母は大中臣安則の娘。出家し、安法法師と号した。融が造営した河原院の一画を寺とし住した。中古三十六歌仙のひとり。恵慶(えぎょう)、源順(したごう)らと親交した。『拾遺和歌集』『新古今和歌集』などに収められている。家集は『安法法師集』。
◆河原院 平安時代初期、嵯峨天皇の皇子左大臣・源融(みなもと の とおる、822-895)の邸宅は、六条坊門小路(五条通)、七条坊門小路(正面通)の間、萬里小路(柳馬場通)、鴨川(平安時代初期の鴨川とも)の間に囲まれた広大な敷地(4町、8町とも)だった。建物は書院造だったという。
 河原院の庭園には、陸奥塩竈、千賀の浦の景色が再現されている。河原に庵が結ばれ、鴨川の水を池に引き入れた。難波江の潮水を毎月30石を運び入れ、海士が塩屋の煙を上らせていたという。魚貝も放たれた。庭園は、四季それぞれの風情を織り込み配置され、籬(まがき)ノ森と呼ばれる。現在の上徳寺、本覚寺のほか、渉成園も含まれたともいう。
 源融は、河原院のほかに宇治平等院などの別荘も持ち、「河原左大臣」といわれた。河原院は宇多法皇没後に寺院になる。
 在原業平に「みちのくはいづくはあれどしほがまの浦こぐ舟のつなでかなしも」(『古今和歌集』東歌、1088)がある。紀貫之は融没後に訪れている。「塩竈にいつか來にけむ朝なぎに釣する舟はここに寄らなん」(『伊勢物語』81段、『業平集』41)
 紫式部『源氏物語』の主人公、光源氏の実在モデルとされ、邸宅だった六条院も舞台として登場する。光源氏は35歳頃に六条院を建てた設定になっている。東南の町「春の御殿」には庭園があり、苑池には龍頭鷁首が浮かべられていた。光源氏と正妻・紫の上、後に女三の宮も暮らした。東北の町・「夏の御殿」には、馬場があり競馬が行われた。光源氏の息子、夕霧、養母・花散里(はなちるさと)が住んだ。西北の町・「冬の御殿」には庭に松が植えられ雪を愛でた。明石の君が暮らした。西南の町「秋の御殿」には紅葉する樹木があり、秋好中宮(あきこのむ ちゅうぐう)が里下りした。
 室町時代、世阿弥作の謡曲「融」に、荒廃した河原院「籬が島」が舞台として登場する。
◆八幡 平安時代、貞観年間(859-877)、この地に八幡宮が建立された。「首途八幡」、「舟八幡」ともいわれた。
 融の子・昇の娘・貞子が、宇多天皇に入内になった。だが、藤原時平の娘・褒子に寵愛を奪われ、融が化けたという。(『江談抄』)。時平は、菅原道真の太宰府左遷を画策した。
 平安時代、道真の父・是善は、旧宅の菅原院をこの地に移築する。勧喜寺が建立され、1003年に鎮守社として錦天満宮が祀られ、御霊社になった。
 八幡宮は、江戸時代、1614年の高瀬川開削後、川の鎮守社になった。1864年に焼失し、近代、1869年に廃社になる。
◆祇陀林寺 祇陀林寺の詳細は不明。平安時代、1000年、天台宗・仁康によ り創建されたともいう。現在の京極中御門(上京区)にあり、焼亡と再建を繰り返した。地蔵信仰でも知られ、地蔵会では疫病祓いの民間信仰を集める。鎌倉時代、1311年に金蓮寺と寺号を改めたともいう。現在の祇陀林寺(上京区)と権現寺(下京区)との関係は不明。
 また、鎌倉時代、七条朱雀東南に歓喜寿院があり、後に祇陀林寺と呼ばれたという。
◆籬島 江戸時代、京都の名所を案内した『都名所図会』(1780)の作者・秋里籬島は、京都に生まれた。俳号は斑竹。各地の名所図会を次々に手がける。
 作家は、この籬島に住み籬島を名乗ったという。
◆榎木大明神 エノキの大木の向かい西、家屋内に、榎木大明神の小祠がある。霊木稲荷、屋敷神になる。創建、変遷の詳細は不明。伝承によれば、河原院の邸内に祀られていた稲荷社という。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『京都はじまり物語』『平安の都』『源氏物語を歩く旅』『お稲荷さんの起源と信仰のすべて 稲荷大神』『稲荷信仰と宗教民俗』『昭和京都名所図会 5 洛中』『京都の地名検証 3』 、ウェブサイト「コトバンク」


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河原院址 〒600-8111 京都市下京区都市町(といちょう),木屋町通下る 
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