惟喬親王墓・小野御霊社・大原御香水 (京都市左京区大原)
The grave of Koretaka-shinno

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「文徳天皇皇子 惟喬親王御墓参道」の石標


「右 惟喬親王御墓参道」の石標



惟喬親王墓


「文徳天皇皇子 惟喬親王御墓参道」の石標
 上野の里山の林に惟喬親王墓といわれるものがある。鎌倉時代の五輪塔(1.5m)が立てられている。
 墓近くに惟喬親王を祀る小野御霊神社があり、上野町の氏神になっている。
◆歴史年表 平安時代、平安時代、天長年間(824-834)、弘法大師の霊威により、高弟・真済(しんぜい)僧正が「大原御香水(霊泉)」を開いたという。
 867年、惟喬親王がこの地に移り、小野山麓の御所田(ごしょでん)に籠居したという。(「井泉由緒」)
 899年頃、西方院が建てられる。惟喬親王像を安置する。
◆惟喬親王 平安時代の皇族・惟喬親王(これたか しんのう、844-897)。第55代・文徳天皇の第1皇子、母は紀名虎の娘・静子。850年、右大臣・藤原良房の娘・明子との間に第4皇子惟仁親王が生まれ、惟仁親王(第56代・清和天皇)が皇太子となった。先例のない皇位継承は、文徳天皇の良房への気兼ねと、惟喬親王の母が藤原一門ではなく紀氏の出自だったためともいう。皇位を失った惟喬親王は、858年、大宰師、弾正尹、常陸太守、872年、上野太守などの役職を歴任した。872年、病となり出家、素覚と号し洛北小野に隠棲した。惟仁親王立太子の際に出家したともいう。岩屋山金峯寺に宮を建て住んだともいう。耕雲入道と名乗り、宮を耕雲寺(高雲禅寺)としたともいう。在原業平、紀有常らも親王の元を訪れたという。その後、病に倒れる。死期迫り、御所の川上の地を避け、さらに北にある小野・大森の地へ移り亡くなったという。
 親王は、各地で木地師の祖との伝承が残っている。
◆業平・親王 伝承がある。惟喬親王と親交のあった在原業平(825-880)は、雪の日にこの地に親王を訪ねたという。
 業平は「忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや 雪ふみわけて君をみむとは」と詠んだ。親王は「夢かとも何か思はむ浮世をば そむかざりけむ程ぞ悔しき」と返歌したという。
◆大原御香水 大原上野の民家・久保家には、「大原御香水(霊泉)」といわれる井泉が涌く。平安時代、天長年間(824-834)、弘法大師の霊威により、高弟・真済(しんぜい)僧正が開いたとの伝承がある。
 惟喬親王の念持仏といわれている薬師瑠璃光如来(18㎝)、惟喬親王像(51㎝)を安置する。平安時代、867年、惟喬親王がこの地に移り、小野山麓の御所田(ごしょでん)に籠居したという。(「井泉由緒」)。親王没後、899年頃、西方院が建てられる。惟喬親王像を安置した。廃寺後は、親王の側近であり、木地師・藤原実秀の後裔と伝えられる久保氏が守り伝えたという。
 戦国末、近江雄琴の城主・佐々木秀純の寄進したという堂を改築して使う。
 旧暦6月16日に涌く水には、諸病に効験あるとの言い伝えがあり、一般に開放されている。伝承によれば、白狐が田畑を荒らした。困った村人が狐を追い、狐は当家に逃げ込んだ。老女が狐を竈に隠して助けた。翌日、夢に白狐が現れ、東北の方角に井戸を掘るように教えた。お告げの通りに井戸を掘り当てると、井戸の水は一日だけ湧いた。井水は、病(胃腸)、田畑の虫害駆除に効能があるというので評判になり、以来「疝気の水」といわれた。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都府の歴史散歩 中』『京都隠れた史跡の100選』『京都発見三 洛北の夢』


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map  惟喬親王墓 〒601-1244 京都市左京区大原上野町 

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