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満足稲荷神社 (京都市左京区) Manzoku-inari-jinja Shrine |
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満足稲荷神社 | 満足稲荷神社 |
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東山通に面する満足稲荷神社(まんぞく-いなり-じんじゃ)は、「満足さん」ともいわれている。 祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。末社に天照大御神(あまてらすおおみかみ)、大国主大神(おおくにぬしの おおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を祀る。 立身出世、商業、会社、工場、事業者の守護神、商売繁盛、病気平癒、家内安全、良縁祈願などの信仰がある。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、豊臣秀吉が朝鮮出兵(1592-1593、文禄の役)の際に戦勝祈願したという。 文禄年間(1592-1596)/1592年/1596年、稲荷大神(いなりおおかみ)の霊験あらたかであり秀吉は満足した。伏見城の守護神、城鎮守神として伏見稲荷大社の祭神を勧請した。社号の「満足」もこれに由来するという。(社伝) 江戸時代、1693年/元禄年間(1688-1704)、5代将軍・徳川綱吉により現在地に遷された。法皇寺の鎮守社になる。 1868年、等持院から持ち出された足利三代将軍木像が三条河原に晒された事件に際して、満足稲荷の野呂久左衛門の邸が京都守護職により犯人捕縛のため踏み込まれる。 近代、1878年、法皇寺は南禅寺境内に移され南禅寺の塔頭になる。当社のみが現在地に残された。地域の人々の当社存続のため、京都府への嘆願運動が起こる。 1888年、幣帛供進神社に指定される。 ◆豊臣秀吉 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし、1537-1598)。幼名は日吉丸、初名は木下藤吉郎。小猿と呼ばれた。父は尾張国(愛知県)の百姓、織田信秀の足軽・木下弥右衛門、母は百姓の娘・なか(天瑞院)。1551年、家出し、後に今川氏の家臣・松下之綱、1554年、織田信長に仕える。1561年、浅野長勝の養女・ねねと結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗った。戦功を重ね、1573年、小谷城主、羽柴姓と筑前守、信長の天下統一にともない西国転戦した。1582年、備中高松城の毛利軍と戦いの最中に本能寺の変が起こり和睦した。軍を返し山崎で明智光秀を討つ。1584年、小牧・長久手で織田信雄、徳川家康の連合軍に敗れる。1585年、紀州根来と雑賀、四国・長宗我部元親を服した。関白に進む。1586年、聚楽第、広寺大仏造営に着手し、太政大臣に昇り豊臣の姓を賜わる。1587年、九州征討、聚楽第が完成する。10月、北野天満宮で北野大茶湯を催した。1588年、第107代・後陽成天皇が聚楽第を行幸する。検地、刀狩を行う。1590年、小田原の北条氏直らの征討、朝鮮使を聚楽第に引見した。1591年、利休を自刃させる。1592年、文禄の役を始めた。甥の養子・秀次に関白職を譲り、太閤と称した。1593年、側室淀殿に秀頼が生まれると、1595年、秀次を謀反人として切腹させ、妻妾子女らも処刑した。1597年-1598年、朝鮮を攻めた慶長の役に敗れた。1598年、3月、醍醐寺で「醍醐の花見」を行う。8月、伏見城で没した。62歳。 「普請狂」と称された。京都で「都市改造」を行う。1585年-1591年、洛中検地・洛中地子免除(1591)、1586年よりの方広寺大仏建設、1586年-1587年、聚楽第・周辺の武家邸宅街建設、1589年、禁裏・公家町の修造整備、1590年、新町割建設(短冊形町割)、1590年、三条大橋などの橋梁・道路建設、1591年、御土居築造、寺院街(寺町・寺之内)建設、1595年、方広寺大仏、1597年、伏見城を建てた。ほか、関所廃止、楽市・楽座制、重要都市・鉱山直轄、貨幣鋳造、太閤検地・刀狩、伏見の城下町化、宇治川の整備、倭寇取締、朱印貿易などを進めた。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。 ◆建築 本殿、拝殿がある。 ◆文化財 近代の橋本関雪(1883-1945)筆「宝舟之図」、猪飼肅谷筆「豊公詣満足神社文図」。 ◆岩神さん 「岩神さん」という大岩が祀られている。岩をさすり、患部の痛いところ、悪いところを触ると治癒するという。緑色岩類。 ◆法皇寺 乙訓寺は、飛鳥時代、第33代・推古天皇(554-628)の勅願で建立される。かつて乙訓郡今里(長岡京市)にあったという。平安時代、宇多法皇(第59代、寛平法皇、867-931)が落飾した後、寺を行宮(あんぐう)とした。天皇巡幸の際の駐輦・宿泊のための施設として使った。以来、法皇寺とも呼ばれる。室町時代、今熊野日吉町(東山区)付近に移る。第3代将軍・足利義満(1358-1408)が伯英(? -1403)に命じ、禅宗寺院とし南禅寺の付属になる。江戸時代、18世紀前半、東門前町(左京区)に再移転する。近代、1878年、南禅寺塔頭・金地院に合併になる。1888年、この地の牧護庵に合併された。法皇寺の名が残る。 現在、牧護庵境内に「寛平法皇御旧跡法皇寺」の石標が立てられている。 ◆樹木 境内にご神木のクロガネモチ(京都市指定保存樹)の大木がある。下の大幹から8本の幹が枝分かれしている。江戸時代、1693年に伏見城より移植されたという。樹齢400年ともいう。雄木、モチノキ科、常緑高木。 ヤマモモがある。 ◆年間行事 歳旦祭(1月1日)、所願成就祈願祭(1月2日)、節分祭(2月初旬)、初午祭(2月)、例祭・神幸祭(5月8日)、大祓式(6月30日)、火焚祭(11月8日)、大祓式(12月31日)、除夜祭(12月31日)。 月次祭(毎月1日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都の寺社505を歩く 上』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都大事典』、『新選組と幕末の京都』、『秀吉の京をゆく』、『京都の自然ふしぎ見聞録』、『豊饒の神さま』、『京都府の歴史散歩 中』、『稲荷信仰と宗教民俗』、『京都 神社と寺院の森』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() 本殿 |
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![]() 末社 |
![]() 末社、大国主大神、猿田彦大神、天照大御神を祀る。 |
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![]() 狛狐、耳の形が丸い。 |
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![]() クロガネモチ |
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![]() ![]() 手水舎 |
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