|
|
出世稲荷神社 (京都市左京区大原) Shusse-inari-jinja Shrine |
|
出世稲荷神社 | 出世稲荷神社 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 出世稲荷神社 ![]() 出世稲荷神社 ![]() 出世稲荷神社 ![]() 出世稲荷神社 ![]() 出世稲荷神社 ![]() 出世稲荷神社 ![]() ![]() ![]() 水天宮 ![]() 水天宮 ![]() 水天宮 ![]() 三石大神の福石大神。 福石、壽石、禄石の三石が祀られており、かつて博徒、相場師は壽石を勝石、福石を取り石、左を打出し石と呼んだ。勝負の神として崇敬されたという。 ![]() 三石大神の壽石大神 ![]() 三石大神の禄石大神 ![]() 三石大神の狛犬、新門辰五郎の奉納による。 ![]() ![]() ![]() ![]() 仮社殿 ![]() ![]() |
大原の地に出世稲荷神社(しゅっせ-いなり-じんじゃ)はある。三千院に向かう通り沿いの坂道の上に建てられている。 豊臣秀吉に因み出世稲荷と呼ばれるようになったという。 祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、天鈿女命(あめのうめのみこと)、大巳貴命(おおなむちのみこと、大国主神)、保食命(ほけつのみこと)を祀る。 立身出世、開運、勝負運祈願、商売繁盛、水難除け、火難除け、病気除け、盗難除け、家内安全などの信仰がある。かつて清水焼関係者、芸能関係者の信仰篤かった。 御朱印が授けられる。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、1587年、豊臣秀吉は、天下統一の実現は稲荷信仰のお蔭として、当初は聚楽第(1586-1595)内に祀られた。聚楽第の城鎮守神とし、伏見稲荷大社から勧請されたという。(寺伝)。朝廷より出世号を賜る。 1588年、第107代・後陽成(ごようぜい)天皇が参詣し、「出世」の称号を贈る。 1595年、聚楽第の破却に伴い旧地(上京区)に移されたともいう。 朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592-1593・1597-1598)の際に、秀吉は戦勝祈願した。秀吉の母・大政所(おおまんどころ、1513-1592)の病気平癒の際にも祈願したという。 江戸時代、1663年/寛文年間(1661-1672)、縁故の諸大名により、旧地(上京区千本通竹屋町下ル)に移された。 享保年間(1716-1735)、再建された。開運出世を願う庶民の信仰を大いに集め、329本の鳥居が建てられていたという。末社・三石神社の人気に負う。(『拾遺都名所図会』) 近代以降、社殿が建立される。明治期(1868-1912に)、秀吉人気が再来し、賑わいを見せた。 現代、2012年、6月、現在地(左京区大原)に移転した。7月、仮社殿が設けられた。 ◆豊臣 秀吉 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・豊臣 秀吉(とよとみ-ひでよし、1537-1598)。男性。幼名は日吉丸、初名は木下藤吉郎。小猿と呼ばれた。父・尾張国(愛知県)の百姓、織田信秀の足軽・木下弥右衛門、母・百姓の娘・なか(天瑞院)。1551年、家出し、後に今川氏の家臣・松下之綱、1554年、織田信長に仕える。1561年、浅野長勝の養女・ねねと結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗った。戦功を重ね、1573年、小谷城主、羽柴姓と筑前守、信長の天下統一にともない西国転戦した。1582年、備中高松城の毛利軍と戦いの最中に本能寺の変が起こり和睦した。軍を返し山崎で明智光秀を討つ。1584年、小牧・長久手で織田信雄、徳川家康の連合軍に敗れる。1585年、紀州根来と雑賀、四国・長宗我部元親を服した。関白に進む。1586年、聚楽第、広寺大仏造営に着手し、太政大臣に昇り豊臣の姓を賜わる。1587年、九州征討、聚楽第が完成する。10月、北野天満宮で北野大茶湯を催した。1588年、第107代・後陽成天皇が聚楽第を行幸する。検地、刀狩を行う。1590年、小田原の北条氏直らの征討、朝鮮使を聚楽第に引見した。1591年、利休を自刃させる。1592年、文禄の役を始めた。甥の養子・秀次に関白職を譲り、太閤と称した。1593年、側室淀殿に秀頼が生まれると、1595年、秀次を謀反人として切腹させ、妻妾子女らも処刑した。1597年-1598年、朝鮮を攻めた慶長の役に敗れた。1598年、3月、醍醐寺で「醍醐の花見」を行う。8月、伏見城で没した。62歳。 「普請狂」と称された。京都で「都市改造」を行う。1585年-1591年、洛中検地・洛中地子免除(1591)、1586年よりの方広寺大仏建設、1586年-1587年、聚楽第・周辺の武家邸宅街建設、1589年、禁裏・公家町の修造整備、1590年、新町割建設(短冊形町割)、1590年、三条大橋などの橋梁・道路建設、1591年、御土居築造、寺院街(寺町・寺之内)建設、1595年、方広寺大仏、1597年、伏見城を建てた。ほか、関所廃止、楽市・楽座制、重要都市・鉱山直轄、貨幣鋳造、太閤検地・刀狩、伏見の城下町化、宇治川の整備、倭寇取締、朱印貿易などを進めた。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。 ◆建築 旧社殿は明治期(1868-1912)以降に建てられた。 ◆聚楽第 聚楽第は安土・桃山時代、1586年に建てられた。秀吉は、わずか4年しか住まず、1591年、甥の豊臣秀次(1568-1595)に譲る。秀次は関白職を継ぎ聚楽第に住む。秀吉に秀頼(1593-1615)が生まれると、秀次は高野山追放後、切腹になった。 1595年、聚楽第は破却され、建物の大部分は伏見城などへ移築された。 ◆三石神社 末社・三石(みついし)神社は、三石をご神体としている。 中央に「寿石」、右に「福石」、左に「禄石」を祀る。合わせて福禄寿になり、勝負の神、福神として知られる。 また、三石は「取り石」、「打出し石」、「勝ち石」とも称された。博徒・相場師が信仰した。江戸時代に人気になり、戦前まで彼らの参詣が絶えなかった。 ◆文化財 ◈本殿には近代、清水焼陶工の6代目清水六兵衛(1901-1980)作の神像、本殿天井に、近現代の日本画家・堂本印象(どうもと-いんしょう、1891-1975)作の「登り竜天井図」がある。 ◈近現代の映画俳優・尾上松之助(1875-1926)寄進の石鳥居、江戸時代-近代の侠客・新門辰五郎(1800?-1875)寄進の狛犬、近現代の映画監督・牧野省三(1878-1929)寄進の鳥居などがあった。 鳥居、天井画は現在地に移された。 ◆社地移転 かつて氏子が存在せず、老朽化した社殿の維持が費用面で困難として、旧地を売却し現在地に移転した。 現在の大原の境内には旅館があった。今後、新社殿が建てられる予定という。 ◆年間行事 節分(魔除柊 [まよけひいらぎ]が授けられる。竹串に出世鈴、柊、魔除札が付いている。)(2月節分)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『秀吉の京をゆく』、『お稲荷さんの起源と信仰のすべて 稲荷大神』、『稲荷信仰と宗教民俗』、『京都大事典』、『京都歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都のご利益手帖』、『京都の隠れた御朱印ブック』 、ウェブサイト「歴史的景観の保全に関する検証事業-京都市歴史的景観の保全に関する検討会 第4回 資料6 景観重要建造物の候補について」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|