蹴上 (京都市左京区)
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蹴上 蹴上 
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蹴上付近の町並み


蹴上発電所


合槌稲荷明神




インクラインを上り詰めたところにある「義経大日如来」


義経大日如来


蹴上浄水場内にある与謝野晶子の歌碑「御目ざめの鐘は知恩院聖護院いでて見たまへ紫の水」


蹴上浄水場はツツジの名所で知られており、例年5月初旬に公開されている。
 蹴上(けあげ)は、旧東海道(現在は国道一号線、府道四ノ宮四ツ塚線)が京都三条通に通じる九条山などの谷あいの急坂をいう。かつて愛宕郡と宇治郡の群境になっていた。古く「松坂」とも呼ばれた。
 東京遷都(1869)後は京都復興、近代化の象徴的な場所になった。
◆歴史年表 平安時代、1177年、源義経は、鞍馬山より橘次末春(金売吉次)に従い、奥州に下る。(『異本義経記』)
 江戸時代、1684年、「蹴挙水(けあげすい)」について記されている。(『雍州府志』)
 1706年、貝原益軒は「蹴上」と記し、地名の初出になる。(『京城勝覧』)
 1780年、「けあげの水」と記されている。(『都名所図会』)
 1864年、禁門の変(蛤御門の変)後、長州藩は朝敵になる。長州人は潜伏し、桂小五郎は、広沢平助とともに蹴上で駕籠かきをした。だが、客に侍と見破られ、小間物商人・広戸甚助の案内で出石に逃れた。
 近代以前、蹴上には茶屋「弓屋」「藤屋」「井筒屋」などが建ち並んでいた。
 近代、1890年、琵琶湖疏水が完成する。船溜、インクラインが建設される。
 1891年、発電所が完成した。(『花洛名勝図会』)
 1912年、浄水場が完成する。京津電気軌道(現・京阪京津線)が通じる。
◆蹴上 蹴上の語源としては「つま先上がりとなるほどの急坂」を意味するともいう。
 平安時代の源義経(1159-1189)についての伝承がある。牛若丸(義経)は、鞍馬山より橘次(さつじ)末春(金売吉次、吉次信高)に従い、奥州平泉・藤原秀衡のもとに赴いた。それに先立ち、首途(かどで)八幡宮で旅の無事を祈願している。
 現在の蹴上付近で、京都へ入る平家の武士、美濃国の関原与市重治(与一)らの一行とすれ違う。その従者の一人(馬とも)が峠の湧水を撥ね、牛若丸の衣を汚した。牛若丸は怒り、10人(9人とも)の武士をその場で切り捨て、与一の耳鼻は削いで追い払った。また、与一も斬られたともいう。牛若丸は、東へ向かう門出の吉兆として喜んだ。斬られた人々のために、九体の石造地蔵(九体仏)を安置して弔ったともいう。その場所は九体町付近とされる。(『雍州府志』)
 そのうちの一体は、「義経大日如来」としてインクラインを登った近くに安置されている。かつて、祠の傍らに「鎧掛けの松」があったという。九条山には4体の石仏がいまも点在するという。
 義経が血糊の刀を洗ったとされるのが「太刀洗池」といわれる。蹴上の南東に当たる現在の山科区御陵血洗町(みささぎ ちあらいちょう)付近にあったという。
◆与謝野晶子 蹴上浄水場には歌人・与謝野晶子の歌碑がある。かつてこの地に、「辻野」という旅館があった。1900年夏、与謝野鉄幹(1873-1945)、弟子の鳳晶子(後の与謝野晶子、1878-1942)、山川登美子(1879-1909)は、互いに歌人として大阪で知り合う。秋、3人は旅館「辻野」に同泊した。
 「御目ざめの鐘は知恩院聖護院いでて見たまへ紫の水」と晶子は詠んだ。
 その年、登美子は結婚、次の年に鉄幹は晶子と再々婚する。結婚後の鉄幹は目だった活躍の場はなく、晶子は、歌人、作家としての名声を得て、評論活動、女性解放運動の思想家としても幅広く活動した。
 登美子の夫は結婚2年目に病別する。やがて登美子も肺結核を発病し、伏見桃山で静養の後、30歳の生涯を閉じた。
 佐藤春夫『晶子曼荼羅』には、旧師鉄幹と2人の女性が見たと思われる永観堂の紅葉の一説がある。
 なお、与謝野晶子の歌碑は市内各所に12カ所ある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都隠れた史跡100選』『京都の地名検証 3』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』『京都大事典』


粟田神社     合槌稲荷明神     三条大橋     琵琶湖疏水               
蹴上 京都市東山区谷川町付近 

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