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白川橋・道標 (京都市東山区) Shirakawa-bashi Bridge |
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白川橋・道標 | 白川橋・道標 |
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![]() 白川橋 ![]() ![]() ![]() ![]() 白川と白川橋 ![]() 道標 ![]() 「史跡 三条白川橋道標」 ![]() 白川 |
三条通の白川に白川橋(しらかわ-ばし)は架けられている。江戸時代には公儀橋の一つだった。 ◆歴史年表 江戸時代、1662年、旧5月、大地震で五条大橋が壊れた。京都所司代・牧野親成(ちかしげ)は、その石材を転用し、白川橋を石橋に架け替えた。 1678年、旧3月、道標が立てられる。 1830年、文政の地震で橋は破損している。半月後、大雨による出水でも被害があった。(『甲子夜話』) 近代、1932年、現在の橋が架けられている。 ◆牧野 親成 江戸時代前期の大名・牧野 親成(まきの-ちかしげ、1607-1677)。男性。通称は半右衛門、号は哲山、佐渡守。父・牧野信成(のぶしげ)の次男。1647年、下総(しもうさ)関宿藩(千葉県)藩主になる。1654年より、15年間にわたり京都所司代を務めた。1668年、転封になり、丹後(京都府)田辺藩主・牧野家初代になった。71歳。 ◆白川橋 白川の付近には、古くは木橋がかけられていた。 江戸時代前期、1662年旧5月に大地震により五条大橋が壊れた。京都所司代・牧野親成(ちかしげ)は、その石材を転用し白川橋を架け替えた。江戸時代には、公儀橋とされ幕府の管轄にあった。ほかに、三条大橋、三条小橋があった。 江戸時代後期、1830年の文政の地震で橋は破損している。(『甲子夜話』) 現在の橋は、近代、1932年に架橋されている。長さ8m余。 ◆文政の地震 江戸時代後期、1830年の文政の地震では、白川橋詰の家屋数軒が倒壊し、死者も出ている。近くの植木屋の石燈籠260本が倒れ、庭用の飛石・手水鉢なども壊れた。 半月後に、大雨による出水があり、橋には再び被害が出ている。(『甲子夜話』) ◆道標 道標(石標)の「三条通白川橋」は、白川橋東詰南の袂に立つ。江戸時代前期、1678年に立てられた。京都で最も古い道標とされている。 北面に、「三条通白川橋」、東面に、「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」、南面に「延宝六戊午三月吉日 京都為無案内旅人立之 施主 為二世安楽」と刻まれている。 高さ157×幅27×奥行24cm。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『京都事典』、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、『京都の災害をめぐる』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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