石敢當 (京都市南区)  
Sekikanto
石敢當 石敢當
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石敢當
 元陶化(もと-とうか)小学校内に、石敢當(せき-かんとう/いし-がんとう/いし-かんとう)が立てられている。
 かつて、鴨川に架かる勧進橋西詰に置かれていた。
◆歴史年表 江戸時代、1854年、鴨川の勧進橋西詰に、木綿問屋忠兵衛により石敢當が立てられた。
 1868年、鳥羽・伏見の戦いなどで傷みが激しくなる。
 近代、1889年、橋の架け替えにともない、石敢當は撤去された。
 1908年、現在地の元陶化小学校内(南区)に移される。
◆木綿問屋 忠兵衛 江戸時代後期の商人・木綿問屋 忠兵衛(?-?)。詳細不明。男性。烏丸五条に住む。1854年、鴨川の勧進橋西詰に石敢當を立てたという。
◆貫名海屋 江戸時代後期の儒者・書家・画家・貫名海屋(ぬきな-かいおく、1778-1863)。男性。本姓は吉井、名は苞(しげる)、直知、字は子善、君茂、通称は政三郎、省吾、泰次郎、別号は海客、海屋、海叟(かいそう)、海仙、菘翁拾翠(すうおう-しゅうすい)、菘翁、摘菘翁、菘叟、林屋、方竹山人、須静主人、三緘主人など。阿波(徳島県)の生まれ。父・藩家老・稲田淡路守の弓術指南・吉井直幸/直好の2男。書は徳島・西宣行(双渓)、絵(狩野派)は藩の絵師・祖父・矢野典博(やの-のりひろ)に学ぶ。壮年の頃、伯父を頼り高野山に登り、空海の真跡に心酔した。下山後、大坂の儒者・中井竹山の「懐徳堂」に入り塾頭になる。書画研究のため諸国を遊歴し、長崎で日高鉄翁(鉄翁祖門)に南画を教授される。東海道、中山道、江戸を経て、のち京都に「須静塾」を開き儒学を講じた。1856年頃、秀穂舎塾主宰・鴨脚秀静は、公文所・学問所に貫名を招く。秀穂舎塾の子らに書・歴史を教え、宮中での神道・古典の講義なども行う。神社の西に「蓼倉(たでくら)文庫」を建て住し、蔵書の中から神社に納めた。最晩年、中風を患い「中風様」と呼ばれる傑作を残す。書作品「白玉井銘」、著『須静堂詩集』など。86歳。
 晋・唐の古碑法帖(こひ-ほうじょう、書道の手本)を学ぶ。書家として京都第一とされ、「幕末の三筆(ほかに市河米庵[いちかわ-べいあん]、巻菱湖[まき-りょうこ])」の一人に数えられた。
◆雨森 白水 江戸時代後期-近代の日本画家・雨森 白水(あめのもり-はくすい、1793-1881) 。詳細不明。男性。名は寅、字は惟寅、通称は善四郎、別号は敬亭、竹坪など。京都の生まれ。文人画を松村景文(けいぶん)・西村楠亭(なんてい)に学ぶ。89歳。
 山水花鳥画・鑑定に優れた。
◆石敢當 「石敢當(せき-かんとう/いし-がんとう/いし-かんとう)」は、石敢当の字もあてる。江戸時代後期、1854年に、鴨川に架かる勧進橋の西詰に立てられた。烏丸五条に住む木綿問屋忠兵衛(?-?)が立てたという。
 「石敢當」の三文字について、江戸時代後期の儒者・書家・画家・貫名海屋(ぬきな-かいおく、1778-1863)が揮毫したとも、江戸時代後期-近代の日本画家・雨森白水(あめのもり-はくすい、1793-1881)によるともいう。また、江戸時代後期の蘭学者・戯作者・桂川中良(甫粲[ほさん]、1754-1809)著の『桂林漫録』(1800)中にある、肥後国(熊本県)の石敢當拓本から写されたともいう。
 石敢當は、江戸時代後期、1868年の鳥羽・伏見の戦いなどで傷みが激しくなったという。近代、1889年の勧進橋の架け替えにともない撤去された。その後、1908年に、現在地の元陶化小学校校門内に移され、保存されている。
 石灯篭の形をしており、北側竿面に「石敢當」と大きく刻まれている。高さ2mほど。
◆石敢當の歴史 石敢當は中国古代からある魔除け・邪気・災害を払う土俗信仰という。中国では「石将軍」とも刻んだ。
 紀元前中国の前漢末の史游(しゆう、?-?)著とされる文字教本『急就(きゅうしゅう)篇』巻一の26番目に石敢當は人名としてある。唐代初期の顔師古が著した注釈書では、「敢當」について「當たる所敵無し」の意としている。
 宋の撰・王象之(1163-1230)の歴史書『與地紀勝』に「石敢當碑」の項がある。北宋の張緯が福建省莆田県の県令として赴任した際に、銘文碑を見つけたという。唐代、770年に石敢當を立て安寧繁栄を願っており最古例という。現存最古は、福建省福州市立博物館所蔵のもので、紹興年間(1131-1149)になる。
 石敢當の呼称については、中国語音の"shih-kan-tang"から転訛したともいう。中国の武将名とも、五代の晋の力士名に由来するともいう。(徐ボツ著『徐氏筆精』で楊信民著『姓源珠璣』を引用)  *「徐ボツ」の「ボツ」は「火+勃」
 中国では風水思想の影響を受けて、悪鬼・悪霊が直進しかできないため、丁字路・三叉路などの突き当たりに立てたという。
 石敢當は、沖縄に伝わり湯桶読みして「いし-がんとう」と呼ばれた。沖縄にはそれ以前より自然石を魔除けとする道祖・郷関信仰があり石敢當と習合する。このため、沖縄では日本で最も数が多く残る。表記も「石巌當」「石巌堂」「石敢堂」「石岩堂」「石垣當」など変化した。「蹴り込みの返し」とも呼ばれる。
 江戸時代中期、1756年に琉球を訪れた冊封副使・周煌は、著『琉球国志略』(1756)に石敢當と刻む石が多いと記している。沖縄県島尻郡久米島には「泰山石敢當」が立ち、江戸時代中期、「雍正十一年(1733年)」とあり現存最古になる。
 沖縄では、家・人に災厄をもたらすとされる悪鬼・悪霊・厄神などを総称し「ヤナムン(邪悪な物)」と呼び、反対の魔除けを「ムンヌキムン(邪悪な物を抜く物)」と呼んだ。また、「マジムン(魔物)」とも称された。悪鬼・悪霊は徘徊し直進する性質を持つ。丁字路・三叉路などの突き当たりでは、 壁を突き抜け向かいの家に入り込み、人に憑き悪事を起こす。このため、人々は魔除として低い位置に「石敢當」と刻んだ石碑を立てるか、「石敢當」の文字を刻んだ石板を壁に貼り付けた。これらの石敢當があると、悪鬼・悪霊は恐れて砕け散るとされた。
 石敢当は鹿児島にも伝わり「せっかんとう」と呼ばれた。その後、九州・本州にも多少分布し、青森県黒石市を北限にした。道の突き当たり、家の入口の正面の他家の壁、家の土台石、丁字路・三叉路の突き当たり、辻・門・橋の袂などにも立てられたという。
◆陶化小学校 陶化小学校は、近代、1872年6月に、当初は九条家の「陶化殿(陶化御殿)」を借用して授業を開始した。「陶化」とは九条家の坊名になる。
 1873年3月には「 紀伊郡第一区東九条校」として正式開校している。1893年に「陶化尋常小学校」と改称する。1918年に京都市への編入に伴い、「京都市立陶化尋常小学校」に改称した。
 現代、1947年4月に「京都市立陶化小学校」と改称する。同年5月には、陶化小学校に陶化中学校を併設開校した。なお、1948年4月に陶化中学校は深草に移転し、「藤森第二中学校」と改称している。
 2012年に陶化小学校は陶化中学校と統合し、「凌風学園」(南区)になる。陶化小学校は閉校した。


❊現在、元陶化小学校は閉鎖されています。石敢當は北門越しに見ることができます。
❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
❊参考文献・資料 『京都大事典』、『沖縄のまじない』、ウェブサイト「石敢當と石垣- 国営沖縄記念公園」、ウェブサイト「『石敢當』を知っていますか- 同志社女子大学」、「ふるさと昔語り(127)-京都新聞2007年7月25日」、ウェブサイト「凌風学園」、『京都石碑探偵』、『親と子の下鴨風土記』、『上賀茂文化 第5号』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 石敢當 〒601-8027 京都市南区東九条中御霊町55 元陶化小学校内
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