|
|
長栄寺 (京都市上京区栄町) Choei-ji Temple |
|
長栄寺 | 長栄寺 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() 「竹谷山長栄寺」の山号寺号碑 ![]() 山門 ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂、「竹谷山」の扁額 ![]() ![]() 地蔵堂 ![]() 地蔵堂 ![]() ![]() 鎮守社 ![]() 祠 ![]() 石敢当 |
大宮通一条上ル西入ルに長栄寺(ちょうえい-じ)はある。山号は竹谷山という。 浄土宗鎮西派の知恩院末、本尊は阿弥陀如来像を安置する。 四辻地蔵は、洛陽二十四地蔵霊場10番になる。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、1587年-1595年、聚楽第の在城の頃、この地には武将・蜂須賀家政の屋敷があったという。(『坊目誌』) 1593年、尼僧・長栄院により長栄寺は創建された。 江戸時代、宝暦年間(1751-1764)前後、この地に、「長栄寺門前町」の地名があった。(「長栄寺敷地図」) 1762年、長栄寺について記されている。(『京町鑑』) 1788年、天明の大火の際に類焼している。 1792年、再建される。 1853年、本堂以外は焼失する。 安政年間(1854-1860)、再建されたという。 ◆長栄院 安土・桃山時代の浄土宗の尼僧・長栄院(ちょうえいいん、?-?)。詳細不明。女性。肥前佐賀藩主の家系に連なる鍋島家の出という。1593年、長栄院を創建したという。 ◆蜂須賀 家政 安土・桃山時代-江戸時代前期の武将・蜂須賀 家政(はちすか-いえまさ、1558-1639)。男性。幼名は小六、通称は彦右衛門、阿波守、号は蓬庵。尾張国(愛知県)海東郡蜂須賀村の生まれ。父・蜂須賀小六正勝。初めは織田信長に仕えた。1570年、父に従い13歳で姉川の戦いに初陣した。1575年より、豊臣秀吉に仕える。1580年、播磨(兵庫県)・長水山城を攻略し功があった。1582年、本能寺の変後、山崎の戦いに加わり、毛利征伐の時に秀吉の馬廻り黄母衣衆(きぼろ-しゅう)になった。1583年、賤ヶ岳の戦、1584年、紀伊根来・雑賀一揆に出陣し、播磨佐用郡を与えられる。1585年、父・正勝の四国征伐の功で、父と共に阿波を与えられ徳島城主になる。1586年、従五位下阿波守に叙任された。1592年-1598年、文禄・慶長の役に参陣し、慶長の役では蔚山(ウルサン)城で浅野幸長を救援した。1600年、関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣方)に属し、子・至鎮(よししげ)は東軍(徳川方)に付く。自らは合戦前に阿波を豊臣家に返上し、大坂・久太郎町橋を警固した。病気と称し出陣せず、東軍勝利後に剃髪し、蓬庵と号し高野山に登る。家督を至鎮に譲り、至鎮に阿波が与えられると後見役になった。至鎮の没後、2代・忠英(ただてる)まで徳島藩政を指導した。81歳。 阿波(徳島)藩祖。太閤検地などを進めた。 ◆仏像など ◈本堂に「阿弥陀如来像」を安置する。 ◈地蔵堂の「四辻地蔵」は、役行者(7世紀後半)作とされる。地蔵は、洛陽二十四地蔵霊場10番だった。 ◆文化財 掛軸「長栄院像」がある。 ◆栄町 栄町(さかえ-ちょう)の町名は、安土・桃山時代、豊臣秀吉による聚楽第の在城の頃(1587-1595)、蜂須賀阿波守(家政)邸があったことに因む。江戸時代前期、1637年には、「あはとの丁」と記されていた。(「洛中絵図」) 江戸時代中期、宝暦年間(1751-1764)前後に、「長栄寺門前町」とも記されていた。(「長栄寺敷地図」)。寺号「長栄寺」から「栄町」と呼ばれていたともいう。 江戸時代中期、1762年には、「阿波屋町」か「栄(はへ)町」とも称されたという。(『京町鑑』) ◆蜂須賀家邸跡 長栄寺境内には、豊臣秀吉による聚楽第の在城の頃(1587-1595)に、蜂須賀阿波守(家政)の邸があった。境内の墓地は邸内にあった池水跡という。(『坊目誌』) 邸宅について、「殿下御附人阿波杢之介の屋敷」(「聚楽図」・『坊目誌』)、「阿波殿屋敷」(「官上京師地図」・『坊目誌』)とも記されていた。 江戸時代中期、宝暦年間(1751-1764)には、西園寺家の下屋敷になり、その後、廃されたという。 ◆石敢当 境内鎮守社の祠右脇に、「石敢当(いし-がんとう/せき-かんとう/(せき-かんとう)」と刻んだ自然石が立てられている。字は風化が進んでいる。 石敢當は中国古代からある魔除け・邪気・災害を払う土俗信仰という。中国では「石将軍」とも刻んだ。 石敢當の呼称については、中国語音の"shih-kan-tang"から転訛したともいう。中国の武将名とも、五代の晋の力士名に由来するともいう。中国では風水思想の影響を受けて、悪鬼・悪霊が直進しかできないため、丁字路・三叉路などの突き当たりに立てたという。 石敢當は、沖縄に伝わり湯桶読みして「いし-がんとう」と呼ばれた。沖縄にはそれ以前より自然石を魔除けとする道祖・郷関信仰があり石敢當と習合する。このため、沖縄では日本で最も数が多く残る。 沖縄では、家・人に災厄をもたらすとされる悪鬼・悪霊・厄神などを総称し「ヤナムン(邪悪な物)」と呼び、反対の魔除けを「ムンヌキムン(邪悪な物を抜く物)」と呼んだ。また、「マジムン(魔物)」とも称された。悪鬼・悪霊は徘徊し直進する性質を持つ。丁字路・三叉路などの突き当たりでは、 壁を突き抜け向かいの家に入り込み、人に憑き悪事を起こす。このため、人々は魔除として低い位置に「石敢當」と刻んだ石碑を立てるか、「石敢當」の文字を刻んだ石板を壁に貼り付けた。これらの石敢當があると、悪鬼・悪霊は恐れて砕け散るとされた。 石敢当は鹿児島にも伝わり「せっかんとう」と呼ばれた。その後、九州・本州にも多少分布し、青森県黒石市を北限にした。道の突き当たり、家の入口の正面の他家の壁、家の土台石、丁字路・三叉路の突き当たり、辻・門・橋の袂などにも立てられたという。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 長栄寺、『京都市の地名』、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|