三縁寺 (京都市左京区) 
Sanen-ji Temple
三縁寺 三縁寺 
   Home    Home







「池田屋事変殉難烈士之墓」の石標


本堂




【参照】「維新史跡 小川亭跡」の石標、東山区縄手通三条下ル西側、京阪三条南出口
 岩倉の高台に三縁寺(さんえんじ)はある。境内は移されており、幕末の池田屋事件で犠牲になった志士らが葬られている。
 浄土宗鎮西派、本尊は阿弥陀仏。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 年代不詳、僧・慶順を開基とする。かつて東山区縄手通三条下ル大黒町にあった。
 江戸時代、1685年、知恩院末寺で、同じく浄土宗鎮西派の西願寺(せいがんじ)に隣接していたという。(『京羽二重』、同年条)
 1864年、池田屋事件の犠牲者になった志士らの遺体が当寺に葬られる。
 近代、1881年-1884年、境内は573坪7分の広大な敷地を有し、東西最長26間9分余、南北20間余あり、南に5間余りの出張、北に12間余の折廻があったという。(『京都府地誌』、同年条)
 現代、1979年、現在地に移転した。
◆宮部鼎蔵 江戸時代後期の尊攘派志士・宮部鼎蔵(みやべ ていぞう、1820-1864)。肥後国の医者・宮部春吾の長男。叔父増美に山鹿流兵法を学び、1849年、跡を継ぐ。肥後藩兵法師範職となる。吉田松陰と親交を結ぶ。林桜園に国典を学ぶ。1849年、ペリー来航に際し江戸に上る。1854年、松陰渡米未遂に関して帰藩。1856年、門人の乱闘事件により帰郷。1862年、肥後藩兵に従い上京する。1863年、親兵の総監に任じられる。八月一八日の政変で敗れ、三条実美ら七卿と長州に下がる。1864年、京都に潜入、桂小五郎と連絡し池田屋に集まるが、新撰組に襲撃され自刃した。(池田屋事件)
◆松田重助 江戸時代後期の武士・松田重助(まつだ じゅうすけ、1830-1864)。肥後熊本藩士。林桜園に国学を学ぶ。宮部鼎蔵に兵法を学ぶ。1855年、熊本、水戸、長州の連合を画策する。1864年、池田屋事件により新撰組に捕縛、翌朝、脱走し会津藩士らにより斬殺された。35歳。
◆吉田稔麿 江戸時代後期の武士・吉田稔麿(よしだ としまろ、1841-1864)。長州藩士雇・吉田清内の子。1856年、吉田松陰に師事、松門四天王の一人。1858年、松陰の再獄阻止に奔走し謹慎組預けになる。1860年、脱藩し江戸に上り、幕府旗本・妻木田宮の用人になる。1862年、上洛。1863年、高杉晋作の奇兵隊に入隊。1864年、上京し池田屋事件で新撰組により重傷を負う。長州藩邸に帰るが、門は開けられず門外で自殺したという。享年24歳。
◆池田屋事件 江戸時代末期、1864年4月頃(旧暦)、四条木屋町の小道具商・枡屋吉右衛門の動向について新撰組は内偵を行う。6月5日早朝、新撰組の武田観柳斎らが店に踏込み、甲冑、鉄砲、長州藩士との書簡などを押収する。吉右衛門は壬生屯所(旧 前川邸)に連行された。自白に追い込むため、土方歳三による激しい拷問が行われた。吉右衛門は耐えられず、自らが尊攘派の志士・古高俊太郎であると自白した。
 自白したという長州の計画内容は、1863年の八月一八日の政変後の巻き返しを図る尊攘派が市中潜伏していること。宮部鼎蔵、大高又次郎らが、6月22日頃祇園祭の強風の日に、御所、市中に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮を幽閉、京都守護職の松平容保以下佐幕派大名を殺害、会津藩邸、六角獄舎を襲い囚われている平野国臣の奪還、さらに天皇を長州へ連れ遷座するというものだった。すでに計画実行の志士が多数上洛、潜伏しており近々市中で同志の集会があるとされた。ただ、計画についてはよく判っていない。
 同日、会津藩兵、彦根藩兵、与力、同心など5000人が市中配備された。三条の旅宿池田屋に集合し善後策を話していた長州、土佐、肥後の尊攘派志士ら20数人を新撰組の近藤勇、沖田総司、永倉新八ら数十人が襲撃、2時間の戦闘が続く。志士側は肥後熊本藩士・宮部鼎蔵、長州藩・吉田稔麿ら9人が殺害され、多数の負傷者、捕縛者を出す。新撰組の当日の死者は奥沢栄助のみで、重傷者も3人だけだった。翌朝も新撰組、会津藩、桑名藩による志士の市中掃討が行われ20数人を捕縛した。
 志士の遺体は池田屋の近くにあった三縁寺に葬られる。この時、身元の確認をしたのは、池田屋の女中・清水ウノとも、小川亭の小川テイともいう。池田屋に参加予定の桂小五郎(木戸孝允)は難を逃れた。なお、土方歳三らは当初、四国屋に向かっている。池田屋事件で尊攘派は打撃を受ける。だが以後、攘夷派の動きはむしろ活発化している。
◆小川亭 京阪電鉄三条駅南東隅に「小川亭跡」(東山区縄手通三条下ル西側)の石標が立っている。三縁寺は京阪三条駅の東に位置していたという。
 江戸時代、小川亭はかつて三縁寺の向かいにあり、裏は鴨川に通じていた。「魚卯」という屋号の肴用達で、特に肥後藩出入りだった。小川亭の主人は2代目・近江屋卯兵衛といい、義母・リセ、妻テイで商う。卯兵衛没後、旅館業に転じ「小川亭」の屋号を掲げた。リセは「勤皇ばあさん」と呼ばれ、宮部鼎蔵らも上京の際には宿泊していたという。福岡藩士・平野国臣、長州藩士・桂小五郎、熊本藩士・河上彦斎なども出入りしていた。新撰組などの探索の動きを察知すると志士らは鴨川に逃れた。
 1864年池田屋事件に先立ち、宮部の下僕の忠蔵が新撰組により南禅寺山門にさらされた際に、テイは宮部に知らせ宿を桝喜から小川亭に移した。池田屋事件では小川亭の馴染み客の宮部ら志士の多くが犠牲になる。リセは、寺に多額の志納をしたという。事件後、リセは犠牲者の身元の確認をしたともいう。奉行所の取り調べを受けた際にも口を割らなかったという。テイは犠牲者の回向を続けた。1868年の維新後、店は大いに繁盛する。テイは平野国臣の銅像を故郷福岡に建てる際に、顔の検証を行ったという。テイが没した1923年に廃業した。
◆墓 池田屋事件犠牲者の墓がある。池田屋事変殉難烈士の墓として、宮部鼎蔵、松田重助、吉田稔麿のほか、播磨国林田藩士・大高又次郎(1821-1864)、土佐高知藩士・石川潤次郎(1836-1864)、長州藩士・杉山松助(1838-1864)、土佐藩士で長州藩邸に入れず自刃した望月亀弥太(1838-1864)、長州藩大嶺神社(美祢市)の神主・廣岡浪秀(1841-1864)、土佐の出身で事件後自害したという北添佶磨(1835-1864)、また、事件に関わりないとみられる宮部鼎蔵の弟子、肥後の上松源友胤(生没年不明)が眠る。埋葬者は7人とも9人ともいう。なお、現在地の移転に際して、旧地墓地を改めた際に、16個の頭蓋骨が見つかったという。現在の墓地には旧墓地にあった石の鳥居が移された。宮部、松田の墓碑前に「小川テイ」と彫られた水入が置かれている。
◆年間行事 池田屋殉難者志士慰霊法要(6月4日)。


*事前要連絡。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『京都新選組案内』『新選組が京都で見た夢』『新選組大事典』『新選組と幕末の京都』『おんなの史跡を歩く』


  関連・周辺西願寺    周辺    関連         

より大きな地図で 京都幕末史跡 を表示
 三縁寺 〒606-0024 京都市左京区岩倉花園町606   075-722-2948
   Home      Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光