長楽寺 (京都市東山区)
Choraku-ji Temple
長楽寺 長楽寺 
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三門






庫裏


本堂


客殿


庭園



庭園


収蔵庫





鐘楼


梵鐘




十三重塔










長澤蘆雪の塚


金光寺石灯籠 1646年、施主・七条大仏師・法眼康□


平安の滝



平安の滝



石壁の石仏





尊攘碑



水戸藩兵留名碑



徳川昭釧の墓



頼山陽の墓



瀬三樹三郎の墓



寺井玄渓の墓


墓地からの京都市内の眺望
 長楽寺(ちょうらくじ)は、円山公園の東、東山・長楽山の西の中腹にある。山号は黄台山という。かつて鷲尾山長楽寺とも呼ばれた。
 時宗、本尊は最澄作と伝えられる准胝(じゅんてい)観音になる。 
 本尊は、平安時代には七観音の一つ。洛陽三十三観音巡礼第7番札所。布袋和尚像は、京洛七福神の一つであり、家内円満の信仰がある。江戸時代には東山七福神の一つに数えられた。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 奈良時代末-平安時代、延暦年間(782-806)、805年とも、第50代・桓武天皇の勅命により、最澄(伝教大師)が創建したともいう。比叡山延暦寺の別院であり、当初は天台宗だった。この地が、唐・長楽寺の風景に似ており、寺号の由来になったという。(寺伝)
 その後、勅願所になる。寺号は、唐の長楽寺に似ていることに由来するという。(『山州名跡志』)
 平安時代-中世中頃、延暦寺に属した。
 寛平年間(889-898)、第59代・宇多天皇(在位:887-897)の頃とも、祇園の東に建てられたともいう。本尊は十一面観音、また准胝観音ともいう。(『拾芥抄』)
 898年、本堂が修復される。
 延喜年間(901-923)、寛雅により建立され、宇多天皇の念持仏・准胝金銅小立像観音を本尊にしたともいう。(『阿娑縛抄』)
 第66代・一条天皇の頃(在位:986 -1011)、画師・巨勢広高が当寺の新堂壁に地獄変相都を描く。(『今昔物語』巻31)
 1088年、内大臣・藤原師通は、上達部らと桜を愛で詩を講ずる。(『後二条師通記』)
 1118年、参議・源師頼は小堂で母の菩提を弔う。(『長秋記』)
 1168年、中納言・三条実房は准胝観音の御開帳に参詣する。(『愚昧記』)
 1179年、右京大夫は、母・夕霧の形見を当寺の印西に届け菩提を弔う。(『建礼門院右京大夫集』)
 1185年、5月、第80代・高倉天皇中宮・建礼門院は、長楽寺の阿証房印誓西(いんせい、印西)を戒師として出家し、直如覚と称したという。(『平家物語』灌頂の巻)。10月、建礼門院は大原・寂光院に移る。
 1190年、西行が紅葉、帰雁の歌を詠む。隆寛は慈円と和歌を詠じる。
 1191年、源宰相は雲居寺上人を導師とし、先姫のために小堂供養、阿弥陀像を安置した。(『長秋記』)
 平安時代末期、准胝観音を安置する零験所として、観音信仰、阿弥陀信仰が行われていた。
 鎌倉時代、1194年-1206年、来迎房に天台の学僧・隆寛が住した。
 隆寛律師(1148-1227)は比叡山を下り当寺に住し、浄土宗に改める。以後、専修念仏長楽寺派を開く。
 1213年、比叡山衆徒は下山し、清水寺焼討のために当寺に立て籠もる。(『百錬抄』)
 南北朝時代、1352年、足利義詮の兵が近江より入り、当寺の上峯に布陣する。(『園太暦』)
 1378年、道勤、慈仙、了真らが勧進し、梵鐘を鋳造する。(『空華集』)
 1385年、栄尊は寺を国阿に譲る。栄尊はその弟子になり、時宗霊山派に改宗した。(『国阿上人絵伝』)
 室町時代、1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)で、東軍の将・細川勝元は西軍の利用に対して禁制を出す。寺は乱により焼失した。
 安土・桃山時代、豊臣秀吉が寺領を寄進する。(『坊目誌』)
 江戸時代、1603年、徳川家康の知恩寺域の拡張、大谷祖廟の整備により境内は狭められる。
 1611年、第108代・後水尾天皇即位に際して、本尊が開帳される。
 1630年、本尊が開帳された。
 正保年間(1644-1648)、1644年とも、後水尾院により本堂が造営され、勅額が贈られる。本尊厨子を東福門院が寄進する(『坊目誌』『山州名跡志』)
 1657年、勧進により楽阿は洪鐘を鋳造した。
 1678年、円山の長楽寺、双林寺などは、「遊人の旅飯出して業とす寺家」になる。(『出来齋京土産目録』同年条)
 1708年、常行念仏が行われた。
 1746年、延亨年間(1744-1788)とも、幕命により東大谷廟の拡張に伴い境内地を割譲される。
 1768年、楽阿は鐘楼を建立し、前住持・与阿の遺志により梵鐘を鋳造したともいう。(『扶桑鐘銘集』)
 文化年間(1804-1818)、借財により養福寺(縄手三条下ル)に寺院を譲り、浄土宗西山派になる。(『坊目誌』)。その後も、極楽寺(裏寺町)、良音寺(蹴上)、西念寺(裡寺町)、知恩院子院・良正院に付した。
 1856年、春光院より僧・月照は長楽寺に移る。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、円山公園に編入される。維新時、知恩院塔頭・良正院の支配下にあった。
 1870年、浄土宗より時宗遊行派になる。七条道場金光寺末(正法寺末とも)になる。
 1874年、8400坪の境内の内、5200坪を上知する。
 1886年、1885年とも、本堂が頽廃し撤却する。本尊を仮堂に遷した。
 1893年、1890年とも、正法寺の河野灌順により正伝寺(北区)の法堂を移し本堂にした。
 1906年、1908年とも、時宗七条道場金光寺が衰退し、合併される。山号を「東山」より本寺の「黄台山」に改める。畑地を京都市に売却した。(『坊目誌』)
 1908年、畑地を京都市に売却する。円山公園に編入になる。(『坊目誌』)
 現代、1980年、祖師像七体、金光寺文書が重要文化財に指定された。
◆寛雅 平安時代後期の僧・寛雅(かんが、?-?)。俗称は源。俊寛の父。真言宗・仁和寺で木寺法印と呼ばれた。三論に精通し法然に教えた。延喜年間(901-923)、長楽寺を創建しともいう。1164年より、法勝寺で寺務を統括した。
◆巨勢弘高 平安時代中期の画家・巨勢弘高(こせ の ひろたか、?-?)。広高、広貴など。巨勢深江(ふかえ)の子。正暦年間(990-995)、藤原道隆の臨時客に楽府屏風が用いられる。999年、不動像を描く。采女正(うねめのかみ)になる。1000年、第66代・一条天皇の衣服のために、五霊鳳桐の模様を描く。1002年、花山上皇(第65代)の命で性空上人像を描く。1010年、藤原妍子の入東宮の調度に屏風を描く。
 絵所(えどころ)長者になる。平安時代絵画の典型様式を完成した。作品は現存しない。
◆隆寛 平安時代後期-鎌倉時代前期の浄土宗の僧・隆寛(りゅうかん、1148-1228)。多念義、小坂義。父は少納言・藤原資隆(やすたか)。幼くして比叡山に上がり、伯父・皇円、範源、天台座主慈円に師事した。寿永年間(1182-1185)、長楽寺来迎坊に住し、吉水庵の法然に帰依した。1204年、法然により「選択念仏本願集」を付属される。1205年、権律師。1227年、比叡山衆徒の訴えによる嘉禄の法難で陸奥国配流になる。だが、護送の武士・毛利季光(西阿)が帰依し、弟子・実成房が代わり、隆寛は季光領地、相模国飯山に赴き没した。浄土宗長楽寺派(多念義流)の祖、派を広める。
◆建礼門院 平安時代-鎌倉時代の高倉天皇中宮・建礼門院(けんれい もんいん、1155-1214)。徳子。平清盛の次女。言仁親王(第81代・安徳天皇)を産む。清盛の意向により、3歳で即位した安徳天皇に反発して、1180年、以仁王(もちひとおう)の挙兵、治承・寿永の乱になる。第80代・高倉天皇、清盛と相次いで没後、平家と源氏が争った1185年、壇ノ浦の戦いで徳子は、母・二位尼、安徳天皇とともに入水する。だが、徳子のみが源氏方に助けられる。京都に送られ、吉田山近くの坊に入り、1185年、長楽寺の印西(阿証房印西)を戒師として出家し、直如覚と称したという。その後、直如覚(徳子)は大原・寂光院へ移った。
 長楽寺境内に、石塔の十三重塔があり、「建礼門院供養塔(御塔)」という。出家の際に、安徳天皇の御直衣をお布施にした。寺に幡(旗)として伝えられている。
◆印西 平安時代-鎌倉時代の僧・印西(?-?)。詳細不明。阿証坊上人。阿証房印誓(いんせい)。1185年、建礼門院の戒師として出家したという。ただ、戒師は大原来迎院・本成房湛教(たんごう/たんきょう、湛斅、湛豪)とみられている。印西は長楽寺を中興する。入水した安徳天皇の御衣を13流の幡として、常行堂にかけ菩提を弔ったという。平重衡の寵愛した新中納言御局を助け尼とした。当寺で亡児の菩提を弔ったという。
◆一遍 鎌倉時代中期の僧で時宗開祖・一遍(いっぺん、1239-1289)。智真。捨聖(すてひじり)、遊行上人と呼ばれた。伊予松山・水軍家系の河野通宏の次男。一族は承久の変(1221)に加わり衰微、父は出家する。10歳で母と死別した。1248年、父の勧めで継教寺・絶縁のもとで出家し、随縁と称した。幼少より聡明だったという。1251年、13歳で師・善入とともに太宰府の浄土宗西山派証空弟子・聖達(しょうたつ)を訪ね師事した。肥前の華台にも学ぶ。智真に改める。1263年、父の死を契機に帰郷し還俗、妻帯し家督を継ぐ。相続に絡み親族に襲われ、1271年頃、再び出家した。1271年、太宰府の聖達を訪ね、信州・善光寺で「二河白道」の喩に感得、阿弥陀仏により救済されると確信する。伊予・窪寺に籠る。1273年、伊予国・菅生の岩屋に参籠した。1274年、妻・超一、娘・超二、従者念仏坊とともに遊行の旅に出る。四天王寺、高野山・金剛峯寺、熊野権現の夢告により、賦算の行(念仏札を配る)を始めた。妻子と別れる。1275年、熊野、京都、西海道より伊予に戻る。1279年、京都・因幡堂、善光寺、信濃国の伴野より、敬愛する空也に倣い踊り念仏を始めた。奥州、平泉、1282年、鎌倉入府を断られる。1284年、3度目になる京都を訪れた。その後、北国、西国を巡り、1289年、摂津国和田岬の観音堂(後の真光寺)で亡くなる。
 一遍の号は、六字名号一遍法の感得に由る。空也の「捨ててこそ」の教えを実践し、捨聖とも呼ばれた。一遍は粗末な身なりで北は江刺、平泉から南は薩摩・大隅まで15年間諸国遊行し、各所で25万枚ともいう賦算と踊念仏を行なう。生涯にわたり寺を建てず、著作も残さず、死期迫るとわずかな経典も焼き捨てたという。一遍の時衆(時宗)は、日常の生活を臨終の時ととらえた。身辺のあらゆるものを捨て、「南無阿弥陀仏」の念仏さえ唱えれば、俗世の人々も阿弥陀仏に救われ往生できると説いた。
◆真教
 鎌倉時代の時宗の僧・真教(しんきょう、1237-1319)。遊行上人第2世。他阿弥陀仏。浄阿。鎮西・弁圓上人の弟子。1276年、北九州で一遍に師事、遊行回国につき従った。1289年、一遍の没に伴い、推されて後継者になり16年間の遊行を続けた。寺、道場の建立、信者の獲得、組織の整備に努め、時宗教団の確立に貢献した。活動地域はおもに関東、中部、北陸だった。晩年は歩行困難になり、1304年、相模国当麻に無量光寺を創建して止住し、当寺で没した。  
◆呑海 鎌倉時代の時宗の僧・呑海(どんかい、1265-1327)。有阿弥陀仏、他阿弥陀仏。相模国の人。遊行上人2世・真教に師事した。浄阿真観、賦算を許され、1301年、京都に七条道場金光寺を建立する。1305年、兄・俣野景平の援助により、相模国藤沢に藤沢道場清浄光寺を建立し住した。1316年、賦算による化導を許可される。1319年、遊行上人4世を継いだ。1320年、遊行3代・他阿智得が当麻道場(無量光寺)で没し、智得の弟子・真光が執権北条高時の命で住持になる。以後、真光(当麻派)と対立した。藤沢上人の初代、後に門流は時宗十二派中最大の遊行派と称された。清浄光寺で亡くなる。
◆国阿 鎌倉時代-室町時代の僧・国阿(こくあ、1314-1405)。播磨・円教寺で当初は天台を修めた。後、託何(たくが)の弟子になり、時宗に転じた。1383年、京都の正法寺、双林寺で布教を行う。霊山派、国阿派の祖。
 時宗国阿派はその後、当山、正法寺の霊山正法寺派(霊山派)と双林寺の双林寺派(国阿派)に分かれている。
◆頼山陽 江戸時代末期の儒学者・頼(賴)山陽(らい さんよう、1780-1832)。名を襄(のぼる)。東山に因み「三十六峯外史」とも号した。大坂に生まれた。父・春水(彌太郎)、母は静子(梅颸)。父は朱子学を修め、私塾「青山社」を開く。6歳の時、山陽は、安芸国広島藩儒官になった父とともに広島に移る。幼少期に朱子学に親しみ、叔父・杏坪(きょうへい)、柴野栗山に学ぶ。1797年、叔父に従い江戸に出て尾藤二洲に学ぶ。江戸・昌平黌に学ぶ。20歳で淳子と結婚する。1800年、21歳で脱藩し、禁を犯し京都へ向かう。広島に連れ戻され、狂とされ、5年近く座敷牢に幽閉の身になる。この時、『日本外史』の構想を練る。24歳で廃嫡になる。1811年、許され京都に戻り、塾を開く。1815年、後妻・梨影と結婚する。1818年-1819年、九州旅行に出る。1822年、三本木に移った。1826年、『日本外史新稿本』が完成する。1830年、絶筆『日本政記』大半が完成する。
 夫妻の墓は長楽寺(左京区)にある。
◆鵜飼吉左衛門 江戸時代末期の水戸藩士・鵜飼吉左衛門(うがいき ちざえもん、1798-1859)。拙斎。尾張国(愛知県)生まれ。父は鵜飼真教の次男。叔父・鵜飼幸吉和益に養われた。1843年 、馬廻役、京都留守居になる。大番組、1844年、藩主・徳川斉昭の隠居謹慎に際し、処罰解除を公家に訴え、1846年、免職される。1853年、復職し、上京した。朝廷工作、日米修好通商条約勅許阻止し、徳川慶喜の将軍継嗣擁立の勅命獲得には失敗した。1858年、幕府刷新を求める戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を子・幸吉に持たせ、水戸藩主・慶篤に手渡した。工作したとして、父子とも安政の大獄に連座し捕らわれ、1859年、江戸で斬刑された。
 墓は長楽寺(左京区)にある。
◆頼三樹三郎 江戸時代末の儒学者・頼三樹三郎(らい みきさぶろう、1825-1859)。名は醇、号は鴨崖。京都に生まれた。儒学者・頼山陽の三男、母は梨影。1832年、8歳で父を失い、川上東山に教えを受ける。1840年、大坂の儒学者・後藤松陰、篠崎小竹、佐藤一斎・梁川星巌らに学ぶ。1843年より、羽倉簡堂(はくらかんどう)に伴われて江戸・昌平坂学問所に遊学した。佐藤一斎の門下になる。1846年、幕府への反感から、寛永寺の石灯籠を破壊し退学になる。東北、蝦夷地へ行き、松前藩の松浦武四郎と知り合う。1849年、京都に戻り家塾を継ぐ。1853年。ペリー来航後に尊王攘夷論を唱え、宮家、公卿に説く。星巌・梅田雲浜らと親交する。1858年、徳川慶喜の擁立に動く。幕府刷新を求める戊午(ぼご)の密勅降下に関係し、井伊大老の失脚を謀る。安政の大獄で捕縛され、六角獄舎に投獄された。1859年、江戸・福山藩邸に幽閉され、伝馬町獄舎で斬首になる。遺骸は小塚原刑場に遺棄された。著『日本外交史』、35歳。
 江戸・回向院に葬られる。1862年、江戸・松陰神社に改葬された。後に、長楽寺(左京区)の父・山陽墓の傍に墓碑が立てられた。
◆松平昭訓 江戸時代後期の武士・松平昭訓 (まつだいら あきくに、1849-1864)。常陸水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の14男。幼少より聡明だった。1863年、兄・慶篤(よしあつ)に従い上京し、勅命で守衛にあたる。賀茂行幸、石清水行幸で将軍跡見職・徳川(一橋)慶喜に従う。従五位下侍従、左衛門之介に任じられた。京都で病死した。16歳。
 墓は長楽寺(左京区)にある。
◆原市之進 江戸時代後期の武士・原市之進(はら いちのしん、1830-1867)。父は常陸水戸藩士・原雅言。藤田東湖の従兄弟。藩校・弘道館に籍を置き、会沢正志斎、藤田東湖に学ぶ。幕臣・川路聖謨に従い長崎に行く。1853年、昌平黌に入学した。1855年、帰藩し弘道館訓導、史館に勤務した。「菁莪塾」を開く。1858年、勅諚の幕府刷新を求める戊午の密勅(ぼごのみっちょく)降下を機に、尊王攘夷運動に参加し、老中・安藤信正の襲撃を画策した。1862年、徳川(一橋)慶喜に随従して上洛する。1864年、一橋家御雇、慶喜の謀臣として長州再征、条約勅許の工作に当たる。1866年、目付になり入洛、慶喜に15代将軍就任を促し、兵庫開港を唱えた。1867年、御池屋敷で幕府遊撃隊を名乗る刺客2人の徳川御家人(鈴木豊太郎、依田雄太郎)に殺害された。38歳。
 墓は長楽寺(左京区)にある。
◆遊行上人 時宗七条道場金光寺の時宗にまつわる宝物、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)像」がある。「一遍上人像」(重文)と「遊行二祖真教上人」、「七条道場の住持の像」であり、鎌倉時代の七条慶派大仏師作という。
 遊行上人とは、本来、開祖一遍かその弟子・真教を意味した。さらに、時宗の総本山・遊行寺(神奈川藤沢市、清浄光寺)の歴代住職を指した。
 僧侶は、諸国を布教のために歩き、お札を配って修行した。京都における遊行上人の道場は、七条道場金光寺(京都駅付近)だった。
◆仏像・木像 ◈本尊「准胝(じゅんてい)観世音菩薩」を安置している。奈良時代-平安時代の最澄(767-822)作と伝えられる。最澄が唐よりの帰国の際に、暴風により難破しかけた船中で示現した観世音を、自ら刻んだという。二頭の龍にまたがる珍しい観音になる。勅封の秘仏として、歴代天皇の即位式にだけ開帳されてきた。洛陽七観音の一つに数えられる。
 ◈「弥陀三尊像」は、平安時代、恵心僧都(源信、942-1017)作という。崇徳上皇(第75代)の念持仏とされ、七条道場金光寺の本尊として安置されていた。非業の死を遂げた上皇の怨霊を鎮めるために、念持仏が安置されていたという。近代、1907年、当寺に遷された。
 ◈本尊脇の「布袋尊像」(50cm)は、東福寺開山・聖一国師(1202-1280)が、中国よりもたらした泥像の技法で、焼きを入れず、三国(日本、インド、中国)の土を混ぜて自作したという。東山七福神、京洛七福神の一つとされている。その後、日本で祀られた布袋像の模範になったという。なお、竃の上に安置される七体の布袋は、内乱で失っていた笑いを取り戻すために、聖一国師が人形師に命じてこの像を写し、配ったものという。
 ◈「南無地蔵(親恋地蔵)」は、旧宝福寺(東山区小島町)の遺仏になる。寺は、奈良時代、733年、行基が創建したという。時宗四条派で鶴林山と号した。かつて鳥辺野北にあり、墓地を管理した。中世には「鳥辺野道場」と呼ばれる。近代、1912年に地蔵堂として再建される。その後、荒廃したため地蔵尊は当寺に遷された。
◆祖師像七体 一遍、時宗の祖師像七体が安置されている。近代、1908年に廃絶された七条道場・金光寺より遷された。鎌倉時代-江戸時代像造のものが10体あり、一遍上人像は立像、真教像は椅像、8体は坐像になる。いずれも下衣に法衣、環のない袈裟姿で合掌している。ほぼ同じ構造、手法であり、寄木造、頭部は前後2材で矧ぐ、体部にほぞで差し込み、体部は正中線と体側の4材矧ぎ、左右肩、袖、背板、各先端部は別材で矧ぐ。玉眼嵌入、彩色仕上げ(古色)。1980年、重要文化財に7体が指定された。
 ◈「一鎮上人坐像」(79㎝)(重文)は、写実的で合掌する57歳の寿像になる。南北朝時代、1334年に造立された。幸俊作。木造、彩色、玉眼嵌入。
 ◈遠像・立像「宗祖・一遍上人立像」(128.2㎝)(重文)は、素足の足はやや開き合掌、遊行する。眼光鋭く、痩せた体躯、両頬は削がれている。像内銘により室町時代、1420年、康秀作であり、製作年が明らかな一遍像の最古の例になる。木造、ヒノキ材、彩色、玉眼嵌入、彩色仕上げ(古色)。
 ◈遠像・椅像「2代・真教上人像」(123.8㎝)(重文)は、南北朝時代作、木造、寄木造、玉眼嵌入、彩色仕上げ(古色)。
 ◈寿像・坐像「4代・呑海上人像」(97㎝)(重文)は、最も古く写実的な表現をしている。鎌倉時代末期の慶派による。没後間もなく像造されたとみられている。木造、ヒノキ材、寄木造、玉眼嵌入。
 ◈坐像「某上人像」(78.5㎝)(重文)は、鎌倉時代末作、呑海と同じ仏師とみられ、名品といわれている。木造、寄木造、玉眼嵌入、彩色仕上げ(古色)。
 ◈坐像「7代・託阿上人像」(77.2㎝)(重文)は金光寺4世、坐像「13代・尊明上人像」(78.9㎝)(重文)は金光寺7世、坐像「15代尊恵上人像」(80.2㎝)(重文)は金光寺9世であり、いずれも南北朝時代作になる。
 ◈坐像「2代・真教上人像」(28㎝)、坐像「某上人像」(63.5㎝)、坐像「某上人像」(46.5㎝)は江戸時代作、木造、寄木造、玉眼嵌入、彩色仕上げ(古色)。
◆七条道場金光寺・慶派仏師 七条道場金光寺(七条通東洞院東入南側材木町)は、鎌倉時代、1301年、時宗2代・他阿真教が4代・他阿呑海に課して創建されたという。「七条河原口道場」とも呼ばれた。以後、時宗総本山になる。南北朝時代、1395年、3代将軍・足利義満は13代・尊明に帰依し、広大な敷地(七条以南、塩小路以北、東洞院以東、高倉以西)を寄進する。また、信徒の寄進相次ぎ隆盛を極める。4代将軍・義持は、室町時代、1420年、遊行上人、時衆が各所の関所を自由往来させ、上人、金光寺の布教活動を厚遇した。時宗の法要に義教、義政も参詣した。武士は戦の際に、時衆を伴い、戦陣で行事を行い、最期は念仏十念を受けた。
 江戸時代、1858年、1864年、焼失する。近代、1906年、長楽寺に合併された。本尊、慶派仏師による上人像などが長楽寺へ遷された。
 七条道場金光寺と慶派仏師との関わりは、鎌倉時代、1301年、運慶3男・大仏師第10代・康弁が道場に土地を寄進したことに始まるという。以来、21代まで七条道場に住し、念仏修業とともに造仏を行う。遊行上人は慶派歴代に、「覚阿弥陀仏」という最高の阿号を授けたという。
◆建築 ◈「本堂」は、平安時代、延暦年間(728-806)に建立されたという。898年に修復する。江戸時代、1644年に再建された。近代、1886年に焼失する。現在の本堂は、江戸時代、1666年に造営された正伝寺(北区)の仏殿が、近代、1890年に移築されている。また、江戸時代、正保年間(1644-1648)に再建されたともいう。近代、1898年に修復され、かつて伏見桃山上の遺構ともいう。2007年に京都市指定有形文化財に指定された。平安時代、第66代・一条天皇の時(在位:986-1011)、巨勢広高は本堂新堂の壁に地獄変の絵を描いて名を得たという。(『今昔物語』)
 西面、方5間、重層、入母屋造、本瓦葺。
◆庭園 江戸時代作の池泉観賞式庭園がある。8代将軍・足利義政の命をうけ、相阿弥が銀閣寺の庭を作る際に、試作した庭といわれている。東山が借景になっており、山よりの湧水が池泉に引かれている。
 池に中島、石橋が架かり、滝がある。滝水は「平安の滝」と呼ばれ、周囲の石壁には平安時代の石仏が刻まれている。水は「八功徳水(功徳水、奇特水、蓮華水)」と呼ばれる。鎌倉時代、1227年、延暦寺の迫害により、専修念仏の指導者・隆寛律師が配流の際に、弟子を集めて念仏を唱えた。池水の清泉に青蓮華を生じたという。
 紅葉の名所としても知られ、「時雨楓」などある。
◆長楽寺山 境内の東にある長楽寺山はかつて寺が所有した。「京の名所は祇園清水長楽寺、江戸の名所は高輪の泉岳寺」と謳われた。
 かつて境内は8400坪(27768.6㎡)あり、上知により長楽寺山を含む5200坪(17190.0㎡)を失い、現在は境内1200坪(3966.9㎡)と墓地1700坪(5619.8㎡)を残している。
◆文人 平安時代、漢詩文集の藤原明衡撰『本朝文粋』、撰者不詳『本朝無題詩』に諷詠されている。
 平安時代の歌人・上東門院中将(987-1011)、歌人・大江嘉言(?-1009?)、官人・高岳相如(?-?)、歌人・建礼門院右京大夫(1157?-?)、平安時代末期-鎌倉時代初期の武士・僧侶・歌人西行(1118-1190)、長沢雪、浄瑠璃の竹本綱太夫、江戸時代の文人・頼山陽(1781-1832)、江戸時代中期の画家などが長楽寺を訪れた。当寺には、文人などの詩歌が残されている。
◆文化財 鎌倉時代、1203年に法然より隆寛に授けられたという「十念名号」、隆寛「御影」。
 「安徳天皇御衣幡(ぎょいのばん)」(複製)は、建礼門院が自ら形見の直衣(のうし)を16旒(りゅう)の仏幡に縫い、亡き子の菩提を弔ったという。幡の実物が2旒ある。繊維には平安時代の平絹が用いられている。(『平家物語』『左記』)
 「安徳天皇御影(みえい)」は、8歳で亡くなった天皇が、独楽(こま)遊びをする様が描かれている。かつて、平安時代の宅間法眼が描いた似せ絵があり、その後、泉涌寺に移された。その後、渡辺柏舟(1908-1988)により模写されたものが所蔵されている。
 「安徳天皇御幡箱」は、江戸時代、1648年に、織田長好により寄進された。漆塗りであり、箱書きは四条道場・金蓮寺の浄阿(1304-1360)による。中には絹の着物が原形をとどめない形で納められていた。
 「建礼門院御影像」は、源氏方の目を逃れるために、当時は表面を墨で塗ったという。
 金光寺より移された「七条金光寺文書」23巻がある。
 本堂に掲げられている寺号「後水尾天皇勅額」、後水尾天皇中宮東福門院寄進の本尊安置の「厨子」。伝教大師作という「弁財天像」、松久朋琳(1901-1987)作「建礼門院木像」。1986年に寄贈の日本画・白本未知筆「大原御幸」。
 「梵鐘」は、江戸時代、1657年に鋳造された。また南北朝時代、1378年ともいう。かつて「長楽寺の鐘」として知られ、黄鐘調の音色といわれた。1941年-1945年、太平洋戦争中に供出され失われた。1956年、再興される。音響指導・理学博士・青木一郎、選名・書は文学博士の神田喜一郎、形態文様設計・坪井良平による。大晦日に除夜の鐘として撞かれている。
◆石造物 本堂北の石塔「十三重塔」は、「建礼門院供養塔(御塔)」という。かつて長楽山山腹の八丁台に立てられていた。
 平安時代、1185年、建礼門院が入寺し、剃髪した際の御髪塔とも、鎌倉時代、1223年に没し、「鷲尾」に遺骨が埋葬されたその鷲尾の地にあったともいう。近代、1868年に知事命により現在地に移転になる。
◆墓 境内後山には、幕末期以降の数多くの著名人の墓がある。
 「尊攘苑」には、儒者で詩に「長楽寺に遊ぶ」を読んだ頼山陽(1781-1832)、夫人・梨影(1797-1855)、幕末の弾圧事件、安政の大獄(1858-1859)で斬首になったその子・瀬三樹三郎(1825-1859)、山陽の弟子・児玉旗山(1801-1835)、弟子・詩人・藤井竹外(1807-1866)、漢詩人・山田翠雨( 1815-1875)、漢方医・山中七郎(?-?)、儒者・佐野山陰(1751-1819)、漢学者・篆刻家・頼立斎(1803-1863)、書画家・牧百峯(1801-1863)、歌人・大田垣蓮月(1791-1875)の墓がある。
 赤穂藩主・浅野長矩に仕えた侍医・寺井玄渓(1622-1711)。
 水戸藩関連では、徳川(松平)昭訓(慶喜弟)(1849-1864)、安政の大獄で死罪になった鵜飼吉左衛門(1798-1859)と子・幸吉(1828-1859)、家老で慶喜直臣の大場一景淑(一真斎)、慶喜幕臣で暗殺された原市之進(1830-1867)、三輪友右衛門、水戸藩烈士の墓がある。
 水戸藩攘夷留名碑には、斬殺された尊攘派藩士・住谷寅之介(1818-1867)ほか、京都で命を絶った本国党86人(62人とも)が葬られている。 
 そのほか、俳人・高城都雀(?-1799)、歌人・能勢春臣(1808-1862)、歌人・市川君圭(1736-1803)、歌人・高畠志貴婦(式部)(1785-1881)、儒者・山田翠雨(1815-1875)、儒者・児玉旗山(1801-1835)、漢詩人・書家・武元登々庵(1767-1818)、医師・寺井玄渓(1622-1711)、画家・長澤蘆雪(1754-1799)、南画家・池上春琴(1779-1846)、3代目・竹本綱大夫(?-?)、日本画家・杉本哲郎(1899-1985)、日本画家・鈴木松年(1848-1918)、新派俳優・静間小次郎(1868-1938)などがある。
◆宿坊・修行体験 境内の宿坊の「遊行庵(ゆうこうあん)」に宿泊できる。お勤め、読経、写経体験もある。
 お勤め・写経会・法話・抹茶接待(毎月第2日曜日、13:30-16:00)。
◆年間行事 布袋祭(1月15日)、春季特別展(4月1日-5月10日)、建礼紋院供養(5月1日)、平家物語一人語り(5月4日-5日)、秋季特別展(10月20日-11月30日)、もみじ祭(扇祈願会、京舞奉納)(11月23日)、除夜の鐘(21:00に整理券配布、0:00より撞く。お守り、厄除け札の授与がある。)(12月31日)。
 写経会(毎月第2日曜日)。


*建物内の撮影禁止
*年間行事は中止、日時変更の可能性があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『長楽寺千年』『長楽寺略誌』『遊行歴代上人肖像彫刻並びに七条文書』『建礼門秘宝解説』『京都・山城寺院神社大事典』『日本の名僧』『事典 日本の名僧』『京都古社寺辞典』『京都大事典』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『京都の寺社505を歩く 上』『京都 阿弥陀の寺と庭』『京都仏像を訪ねる旅』『京の花街ものがたり』『増補版 京都の医史跡探訪』『新選組と幕末の京都』『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』『京都隠れた史跡100選』『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『こころ美しく京のお寺で修行体験』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、ウェブサイト「コトバンク」


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