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金輪寺 (京都府亀岡市) Kinrin-ji Temple |
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金輪寺 | 金輪寺 |
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![]() ![]() ![]() 石段 ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 大瓶束と左右の笈形、虹梁 ![]() 手狭 ![]() 大斗、木鼻 ![]() 花頭窓 ![]() ![]() ![]() 鐘楼 ![]() ![]() 鳥居型の玄関 ![]() 五重石塔(重文) ![]() 九重石塔 ![]() 頼三樹三郎の供養塔 ![]() 桜井新三頼直の供養塔 ![]() ![]() 境内向かい、南西の半国山(774.2m) ![]() 麓の宮川から見た神尾山 |
亀岡の南西、丹波篠山に向かう国道372号線から、神尾山(かんのおさん、359m)の九十九折の道を登ると、山の頂付近に金輪寺(きんりん-じ)が建つ。山号は神尾山(かみお-さん)という。 本山修験宗、本尊は薬師如来像。 口丹波西国三十三所霊場。 ◆歴史年表 古く、役行者(7世紀末)ゆかりの修験所だったという。 奈良時代、783年/延暦年間(782-806)、西願(せいがん)により創建された。当初は天台宗とした。(寺伝) その後、荒廃する。 平安時代、寛治年間(1087-1094)、高山寺・明恵により再興される。当時は南谷、北谷に一切経蔵ほか多くの坊舎が建ち並んでいたという。現在地は、北谷になる。 室町時代、1495年、南谷に一切経蔵に関する記述がある。(「後土御門天皇綸旨写」) 1526年、柳本賢治の兄・香西元盛が細川尹賢の讒(ざん、讒言)により細川高国に殺された。賢治は、波多野稙通と高国に反抗し、神尾寺城に拠って阿波の細川晴元党に呼応した。(『言継卿記』) その後、明智光秀(1528?-1582)の丹波攻めの拠点になる。 1577年、兵火により堂宇の大半を焼失する。 江戸時代、亀山藩主の祈願所になった。 江戸時代後期、住職・大橋黙仙は勤王志士と交流し、当寺は勤王派の拠点になる。 1863年、6月、頼三樹三郎の供養塔が立てられる。 ◆西願 平安時代前期の天台宗の僧・西願(せいがん)。詳細は不明。783年/延暦年間(782-806)、金輪寺を創建したという。当初はとした。 ◆明恵 平安時代後期-鎌倉時代中期の高山寺中興の祖・明恵(みょうえ、1173-1232)。紀州湯浅(有田郡石垣庄)の生まれ。父は武士・平重国、母は湯浅宗重の娘。1180年、8歳で孤児になり、1181年、9歳で神護寺の叔父・上覚の下に入る。仁和寺の尊実、尊印、景雅より真言密教、華厳を学ぶ。上覚、勧修寺の興然より密教を学び灌頂を授けられる。1188年、上覚により出家、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。成弁(後高弁)と称した。1193年、東大寺に出仕する。東大寺・尊勝院の聖厳、建仁寺でも学び、華厳、真言、律、禅宗などを体得した。1195年、紀州白上峰に隠遁した。1198年、高雄に戻され文覚より寺再興を託される。白上、筏立(いかたち)に戻る。1199年、高雄、筏立に籠る。1201年、筏立、糸野に移った。1202年、上覚により伝法灌頂を受ける。1203年、天竺行を春日明神の神託により止める。春日神社、笠置に解脱上人を訪ねた。1204年、糸野、神谷、栂尾、紀州・崎山に移る。1205年、神谷で入唐を決したが実現できなかった。栂尾に移る。1206年、高山寺を建立した。1207年、院宣により東大寺尊勝院学頭。1208年、紀州に移り、1210年、栂尾に戻る。1216年、石水院を建立した。1217年、紀州、1218年、栂尾、賀茂仏光山に移った。1223年、善妙寺建立、1224年、楞迦山に蟄居する。1226年、紀州、1229年、神護寺講堂供養導師、1231年、紀州施無畏本堂供養、1232年、亡くなり禅堂院に埋葬された。60歳。 明恵は法然とも対立し『摧邪輪(ざいじゃりん)』(1212)で糾弾した。華厳を基礎とし、真言密教も取り入れた厳密(ごんみつ)は、実践的な修行を重んじた。仏の足下より発する光に一体化する仏光観、五秘密法(金剛薩埵・欲、触、愛、慢)を説いた。仮名混じり文『華厳唯心義』を著し、多くの在家女性の読者を得、女人救済に尽力する。建礼門院も明恵により受戒した。『解脱門義聴集記』、自らの見た夢を40年にわたり綴った『夢記(ゆめのき)』(1190-1231)などがある。 ◆丹波康頼 平安時代中期の医家・丹波康頼(たんば-の-やすより、912-995)。詳細は不明。丹波国天田郡(福知山市)、または桑田郡矢田(亀岡市)に生まれたという。旧姓は劉芳氏といい、漢からの渡来系坂上氏、また、尾張氏一族の丹波国造家・丹波直子孫ともいう。984年、中国の医書を参考にして、『医心方』全30巻を編じ朝廷に献上した。現存する日本最古の医学書とされている。その功績により、朝廷から丹波宿禰(すくね)姓を贈られ、以来、医家になる。現在の亀岡市下矢田町に住み、近くの鍬山神社に日参し医術向上に励んだという。最上級の薬草を育て針博士になったという。「医王谷」の地名はいまも残されている。官位は従五位上・医博士、丹波介、左衛門佐(さえもんのすけ)兼丹波介。84歳。 亀岡の医王谷(亀岡市下矢田町)は、康頼が住み、薬草を育てた地との伝承がある。鍬山神社(上矢田町)には、康頼が同社に日参し、医療の神・大国主命に祈願したという江戸時代の古文書が残る。 ◆柳本賢治 室町時代後期の武将・柳本賢治(やなぎもと-かたはる、?-1530)。通称は弾正忠。丹波の土豪・波多野稙通の弟。1526年、兄・香西元盛は細川尹賢の讒言(ざんげん)により細川高国に殺される。賢治は稙通ともに高国に反旗を翻し、丹波・神尾寺城で阿波の細川晴元党に呼応した。丹波守護代・内藤国貞ともに尹賢を追い、1527、桂川の合戦で高国軍を大破させ入京した。堺に足利義維、細川晴元を首班とする堺公方府が成立する。賢治らは阿波・三好元長と反目した。1528年、賢治は大和へ侵入し、河内・畠山稙長の誉田城を攻め陥落、山城山崎で元長党の伊丹某を殺した。1529年、大和赤沢氏を攻め、摂津・伊丹城の伊丹元扶を敗死させた。1530年、近江亡命中の将軍・足利義晴の還京は成らず、播磨・依藤城の攻撃中に、高国の刺客により暗殺された。 高国政権を崩壊に導き、細川晴元政権への橋渡しを行った。 ◆大橋黙仙 江戸時代後期-近代の僧・大橋黙仙(1813-1870)。幼名は亮雄、号は亮裕、黙仙、龍禅、僊逸、喝蟾、現寿院など。美濃国(岐阜県)生まれ。真宗・唯願寺の住持・明教の4男。京都で天台宗僧都になる。江戸で儒学を学ぶ。21歳頃、故郷に戻った。比叡山に上り天台、南都にも学ぶ。筑紫で遊歴した。1846年、金輪寺住職になる。58歳。 梁川星巌により詩作を学び詩社に入る。勤王僧であり頼三樹三郎ほか、多くの尊攘派の志士らと親交し支援した。金輪寺の離れに志士らを匿っていたという。 正徳寺(東京)に葬られた。 ◆頼三樹三郎 江戸時代後期の儒学者・頼三樹三郎(らい-みきさぶろう、1825-1859)。名は醇、号は鴨崖。京都に生まれた。儒学者・頼山陽の三男、母は梨影。1832年、8歳で父を失い、川上東山に教えを受ける。1840年、大坂の儒学者・後藤松陰、篠崎小竹、佐藤一斎・梁川星巌らに学ぶ。1843年より、羽倉簡堂(はくら-かんどう)に伴われて江戸・昌平坂学問所に遊学した。佐藤一斎の門下になる。1846年、幕府への反感から、寛永寺の石灯籠を破壊し退学になる。東北、蝦夷地へ行き、松前藩の松浦武四郎と知り合う。1849年、京都に戻り家塾を継ぐ。1853年、ペリー来航後に尊王攘夷論を唱え、宮家、公卿に説く。星巌・梅田雲浜らと親交する。1856年、丹波篠山の医・八木玄廸の三女・君子を妻にした。1858年、徳川慶喜の擁立に動く。幕府刷新を求める戊午(ぼご)の密勅降下に関係し、井伊大老の失脚を謀る。安政の大獄で捕縛され、六角獄舎に投獄された。1859年、江戸・福山藩邸に幽閉され、伝馬町獄舎で斬首になる。遺骸は小塚原刑場に遺棄された。著『日本外交史』、35歳。 江戸・回向院に葬られる。1862年、江戸・松陰神社に改葬された。後に、長楽寺(左京区)の父・山陽墓の傍に墓碑が立てられた。 ◆桜井頼直 江戸時代中期-後期の尊攘運動家・桜井頼直(さくらい-よりなお、1824-1868)。通称は新三郎、号は義山。美作(岡山県)の生まれ。京都の岩倉具視邸に出入りし、1864年、禁門の変で幕府の嫌疑を受け、僧に変装して逃れた。1868年、戊辰戦争で旗奉行として岩倉具視の子・具定に従い江戸で暗殺された。45歳。 ◆仏像 本尊の「薬師如来像」は江戸時代作の秘仏であり、30年に一度開帳される。 ◈かつて「薬師如来坐像」(73.6cm)が安置されていた。奈良時代作、丹波康頼の念持仏とされていた。康頼の6代後裔・丹波基康により寄進されたという。その際に、像内に1尺8寸(58cm)の金の仏像が納められていた。鎌倉時代、1240年-1250年、金輪寺中興開山・高信(1193-1264)の時、薬師如来は高山寺(右京区)に遷された。高信は明恵の高弟という。像は手に薬壺を持たない。木心乾漆造漆箔。現在は京都国立博物館に保存されている。 木心乾漆造、漆箔。 脇侍、日光・月光菩薩像が控えた。日光菩薩像(重文)は東京国立博物館蔵、月光菩薩像は東京芸術大学蔵。 ◈脇侍は、「月光菩薩像」、「日光菩薩像」で東京国立博物館、東京芸術大学にある。 ◈「金剛力士立像」がある。鎌倉時代、1301年作の仏師・定有による。 ◈木彫本尊「薬師如来」(1.02m)は盗難により失われた。 ◆遺構 ◈南北両谷に極楽坊跡、竹中坊跡、宝蔵坊跡、東柳坊跡など数多く寺坊跡がある。現在、石垣、礎石などの遺構が山中に残されている。 ◈現在の本堂は、かつての北谷の地に建てられている。南北両谷の本堂もここに建てられていたとみられている。 ◈参道の石段は、江戸時代中期、寛延年間(1748-1751)に築かれた。 ◆文化財 ◈鎌倉時代、1292年の「石造五重塔」(重文)が立つ。 ◈南北朝時代の「絹本著色仏涅槃図」(重文)。 ◈南北朝時代、「天文三年(1382年)」銘の鰐口(仏堂の正面軒先に吊り下げられた円形の仏具)がある。 ◈室町時代、1534年の「梵鐘」などがある。 ◈「金輪寺文書」によれば、大橋黙仙(1813-1870)住持は次のような人々と交流した。漢詩人・梁川星巌(1789-1858)、頼三樹三郎(1825-1859)、儒者・池内大学(1814-1863)、尊攘志士・梅田雲浜(1815-1859)、尊攘志士・松本奎堂(1832-1863)、尊攘志士・山中静逸、尊攘志士・坂本龍馬(1835-1867)、尊攘志士・中岡慎太郎(1838-1867)、尊攘志士・政治家・木戸孝允(1833-1877)、尊攘志士・淡海魁堂(1822-1879)。 ◆建築 ◈本堂、庫裡が建つ。 ◈庫裡裏手の「離れ」は、当時のままに残されている。庫裡とは渡り廊下で繋がる。一階は土間、二階は庫裡に通じる。座敷(2間続き)は「紫翠山房」と呼ばれていた。幕末の頃、頼三樹三郎などの志士らが匿われ、起居していたていたという。 ◆石造物 ◈「五重石塔」(重文)は、鎌倉時代中期、1240年の造立とされる。初層軸部に舟形光背、蓮華座上に四方仏を半肉彫りしている。各屋根と軸部は別石になる。高さ3.75m、花崗岩製。 ◈「九重石塔」(亀岡市指定文化財)は、鎌倉時代、「正応五年(1292年)」の銘がある。 ◆墓・供養塔 ◈神尾山頂近くに立つ五輪塔は、平安時代の医師・丹波康頼の供養塔とされている。康頼の6代後の基康が、康頼の念持仏を胎内に納めた薬師如来を寺に寄進し、歴代住職の墓の横に塔が立てられたという。 ◈本堂脇に供養塔2基が立つ。幕末、大橋黙仙は勤王僧になった。庫裡裏手の離れに勤皇志士が集まり密儀を交わしたという。安政の大獄により処刑された頼三樹三郎、桜井新三頼直の遺髪を持ち帰り、黙仙が供養したという。 「頼君三樹處士墓」は、1863年6月に立てられた。裏面の三樹の絶命詩「獄中作」があり「排雲欲手掃怪熒…」と刻まれている。揮毫は兄・頼支峰(1823-1889)による。 ◆神尾山城 境内の裏に山城、神尾山城(かんのおさんじょう)が築かれていた。城には、神尾城、神尾寺城、神尾山古城、本目城、本梅城、本免城など多くの呼称がある。 城の文献初例は、室町時代、1526年で、細川尹賢(ただかた、?-1531)が築城した。柳本賢治(?-1530)の居城になり、その後、明智光秀(1528?-1582)の丹波攻めの拠点になったという。 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、光秀が波多野秀治(?-1579)、秀尚(?-1579)兄弟の篠山の八上城攻めの中継基地として城を使ったという。当初、織田信長(1534-1582)の家臣になった波多野兄弟は、1575年、信長に命じられた光秀の軍に加わり、反攻勢力の討伐をした。だが、1576年、黒井城の戦いで翻り、光秀に反撃した。光秀は八上城に籠城した兄弟を兵糧攻めとし、1579年に降伏させた。この時、光秀は自らの老いた母・お牧の方を、人質として差出し兄弟を降した。兄弟は一時、神尾山城に連れて来られたという。その後、安土城に送られ、信長の命により磔になっている。 山腹に城の遺構として本丸跡、曲輪、石塁、井戸跡、空堀跡などがある。東西100m、南北400mが城跡になる。 ◆宮川遺跡 1995年、神尾山の東の山麓で宮川遺跡の発掘調査が行われた。 弥生時代後期-古墳時代初期の竪穴式住居跡(弥生時代の八角形住居跡など)、6世紀後半-末の横穴式石室1基、中世の堀立柱式建物跡4棟(金輪寺関連ともされる)、そのほか墓、複数の穴(ピット)などが確認された。 ◆半国山 境内向かい、南西に半国山(774.2m)が望める。山頂からは、丹波の国が半分見えるとして名付けられたという。「丹波富士」とも呼ばれる。頂きからは、愛宕山、嵐山、小塩山、天気が良ければ遠く六甲山、大阪湾まで望めるという。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 金輪寺案内板、『京都府の地名』、『京都府の歴史散歩 下』、『事典 日本の名僧』、『増補版 京の医史跡探訪』、『京の医学』、『京都の地名検証 3』 、ウェブサイト「頼三樹墓碑考-金輪寺文書を中心に」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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