草津みなと残念石 (京都市伏見区)  
Kusatsu Port Zannen Stone
草津みなと残念石 草津みなと残念石
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home







矢穴痕(やあなあと)


羽束師橋から見た周辺の桂川流れ


 桂川に架かる羽束師(はづかし)橋の下流、東岸の一角に石材が残されている。江戸時代の二条城修築に関係する用材であり、「草津みなと残念石(くさつみなと-ざんねんいし)」と呼ばれている。
 かつて、この付近の桂川は水運の要衝として、河港の草津湊(くさつ-みなと)が開かれていた。
◆歴史年表 古代(奈良時代-平安時代)、草津湊は、桂川沿いの下鳥羽、横大路の境付近にあった。
 
中世(鎌倉時代-室町時代)、湊は「木津」、「今津」と呼ばれる。
 江戸時代、1662年、寛文近江・若狭地震(寛文京都地震)により、二条城の堀、石垣が破損した。(『殿中日記』)。大垣藩主・戸田氏信に修築が命じられ、石材が舟により草津湊に集められ、この地より陸路で二条城に送られた。
 現代、2015年8月、川底から石材が引き揚げられる。 
 2016年、11月6日、石材は「草津みなと残念石」と命名された。
◆戸田氏信 江戸時代前期の大名・戸田氏信、とだ-うじのぶ、1600-1681)。父・戸田氏鉄(うじかね)の長男。1651年、美濃・大垣藩主戸田家2代になる。3人の弟に新墾地で1万3000石を分け与えた。1662年、寛文近江・若狭地震(寛文京都地震)で破損した二条城の修築が命じられた。藩の法令集「定帳」を作る。83歳。
◆残念石 江戸時代、1662年5月1日(新暦6月16日)の「寛文近江・若狭地震」は、「寛文京都地震」とも呼ばれる。
 震央は近畿地方北部であり、規模 M7.5程度、最大震度7(推定)だった。二条城の番衆小屋が破損し、外曲輪の多聞櫓、塀、石垣のほとんどが破損している。(『殿中日記』)。
 地震の1カ月後に、大垣藩主・戸田氏信に修築が命じられる。瀬戸内海の島々、東六甲(御影、芦屋)、加茂、笠置などから用材の石が切り出される。
 石材は、淀川水運で草津湊まで運ばれ、草津加瀬で陸揚げされ、その後は陸路で二条城に運ばれた。陸揚げされるまでに、何らかの理由で桂川の川底に水没した石があった。これらは「残念石」と呼ばれた。
 2015年8月、石材は桂川の川底から引き揚げられる。2016年11月6日に、「草津みなと残念石」と命名され、保存されている。
◆草津湊 河港の草津湊は、古代に桂川沿いの下鳥羽、横大路の境付近にあった。
 平安時代には、貴人が都から旅立つ湊になる。
 中世には、「木津」・「今津」と呼ばれた。以来、瀬戸内海などを通じ、都に物資を運ぶ舟運の要として発展する。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 京都市の駒札、『京都大事典』、ウェブサイト「近江・若狭地震における京都での被害と震災対応 - 立命館大学」、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺,relevance&surrounding area草津・羽束師橋   関連・周辺,relevance&surrounding area鳥羽の大石  関連・周辺,relevance&surrounding area魚市場遺跡 魚魂碑  周辺,surrounding area   関連,relevance二条城(元離宮二条城)      
京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 草津みなと残念石 〒612-8483 京都市伏見区横大路草津町 
50音索引,Japanese alphabetical order  Hometop 50音索引,Japanese alphabetical order  Hometop
logo,kyotofukoh © 2006- Kyotofukoh,京都風光