草津湊・羽束師橋 (京都市伏見区)
Kusatsu Port
草津湊・羽束師橋 草津湊・羽束師橋 
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北方向、鴨川(右)と桂川(左)の合流点


南方向、桂川


地名に残る草津


羽束師橋






 鴨川と桂川の合流する地点に架かる羽束師(はづかし)橋の東詰一部に、横大路草津町(よこおおじ-くさつちょう)の地名が残る。付近に道標「柳谷道舟乗場」が立つ。
 かつて草津は鴨川畔にあり、古代の津(湊)が開かれていた。ただ、鴨川の流路は時代により変化しており、その場所は特定されていない。実際の草津の位置は、橋よりさらに東寄り付近にあったとみられている。 
◆歴史年表 平安時代、平安京造営に際して、物資輸送のための鳥羽の作り道が下鳥羽から羅城門まで通じていた。鴨川と桂川の合流点付近には、「草津の湊(くさつのみなと/くさつみなと)が開かれた。現在の鴨川付近ではなく、さらに東よりの下鳥羽と横大路の間付近にあったともいう。貴族は、草津より乗を利用していた。
 1013年、藤原道真は、賀茂河尻(草津付近?)で乗船し宇治別業に向かう。(『御堂関白記』)
 1156年、保元の乱後、崇徳上皇(第75代)が讃岐に配流された際には草津より乗船した。(『兵範記』)
 1180年、高倉上皇(第80代)の安芸国厳島行幸に際して、鳥羽草津より乗船している。(『平家物語』)
 1185年、神璽(しんじ、天皇の御印)の都入りに際して、行事弁が草津まで出向いている。(『玉葉』)
 1188年、九条兼実は、天王寺詣の際に、淀津より乗船した。この時、「草津」の水深について記している。(『玉葉』)
 鎌倉時代、1207年、法然は土佐に流される際に、草津より乗船したとみられる。
 室町時代、15世紀(1401-1500)後半まで、勧進橋以南の鴨川の川筋は、現在の国道24号線付近にあったともいう。
 安土・桃山時代、文禄年間(1592-1596)、豊臣秀吉による伏見城築城に伴い、草津の湊は、大坂からの淀川を利用した物資の荷揚げ地になる。横大路には、多くの鮮魚、米麦問屋が建ち並んだ。その後、草津の利用は減り、伏見津が取って代わる。
 近代、1877年、東海道本線の敷設に伴い京都駅が開業した。神戸と京都間の線路全通により、草津の湊は次第に衰微する。やがて周辺は、農地に変わった。
 1908年、桂川の横大路付近の改修工事に伴い、現在地に伏見道の橋梁として架けられた。(『京都府誌』)
 1911年、5月、板橋(橋長135m、1.8m)が架けられた。(『京都府誌』)
 1939年、旧橋が架橋(橋長238m、幅員5.5m)される。
 現代、1997年、4月、現在の羽束師橋が架橋された。
◆一寸法師 一寸法師が難波より上り、草津(鳥羽の津)に上陸したという設定になっている。(『御伽草子』)
◆羽束師橋 羽束師橋は、京都市伏見区の羽束師地区と横大路地区との間を結ぶ都市計画道路・外環状線の桂川に架けられている。二層構造になっており、車道橋(車道4車線)の下に、歩道橋が設けられている。
 橋種は鋼橋、羽束師側高架部(上部工)・6径間連続RCホロースラブ(1連)、桂川橋梁(車道部)(上部工)・3径間連続鋼非日合成箱桁(2連)、橋梁歩道部(上部工)・鋼板箱桁3径間連続(1連)・単純(1連)、横大路側高架部(上部工)・4径間連結式PTC桁(2連)。
 車道橋は橋長742m、幅員16.0m、歩道橋は橋長240m、幅員4m。路線名は伏見柳谷高槻線 。総事業費65億円。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都市の地名』、『京都大事典』、『京都の地名検証』、ウェブサイト「京都市 羽束師橋」、ウェブサイト「京都市橋りょう長寿命化修繕計画 別冊資料 京都市管理橋りょう一覧 、平成28年4月現在」


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map 羽束師橋・草津湊付近 〒612-8483 京都市伏見区横大路草津町
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