村上天皇皇后 安子火葬塚 (京都市左京区)  
The cremation mound of Empress Fujiwara-no-Anshi
村上天皇皇后 安子火葬塚  村上天皇皇后 安子火葬塚
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「皇太子慶頼王墓 中宮藤原安子火葬塚 参道」の石標

中宮藤原安子火葬塚





中宮藤原安子火葬塚
 吉田泉殿町に、村上天皇皇后 安子火葬塚(むらかみ-てんのう-こうごう-あんし/やすこ-かそうづか)がある。かつて、一帯は「吉田野(よしだの)」と呼ばれ、「身隠ノ森(みがくしのもり)」が広がっていた。森には貴人の火葬地があるとされていた。
 平安時代中期の藤原安子(ふじわら-の-あんし/やすこ)は、この地で火葬されたという。
◆歴史年表 平安時代、964年、4月29日(新暦6月11日)、藤原安子は亡くなる。5月7日、遺骸は愛宕郡東南の野 /神楽岡の西北の地で火葬されたという。その後、遺骨は浄妙寺(宇治市)に納められたという。
 江戸時代、1787年、現在地は、平安時代の第71代・後三条天皇(1034-1073)の火葬地とされていた。(『拾遺都名所図会』)
 近代、明治期(1868-1912)初期、現在地は、藤原安子の火葬墓に治定される。
 現代、1933年、8月、大阪皇陵巡拝会により、「皇太子慶頼王墓 中宮藤原安子火葬塚 参道」の道標が立てられている。
◆藤原安子 平安時代中期の藤原安子(ふじわら-の-あんし/やすこ、927-964)。右大臣・藤原師輔(もろすけ)の娘、母は藤原経邦の娘・盛子。940年、14歳で内裏の飛香舎(ひぎょうしゃ)で、東宮・成明(なりあきら)親王(第60代・村上天皇)と結婚した。946年、即位に伴い女御になる。従三位。948年、承子(しょうし)内親王、950年、第2皇子・憲平(のりひら)親王(第63代・冷泉天皇)を産み、憲平親王は立太子する。直前に民部卿・藤原元方の娘・祐姫(すけひめ)が第1子・広平親王を出産したものの、広平親王は立太子を逸した。952年、寵愛した為平(ためひら)親王、953年、輔子(ほし)内親王、955年、資子(しし)内親王を産む。956年、従二位になり、958年、立后し中宮を称した。959年、守平(もりひら)親王(第64代・円融天皇)を産む。964年、選子(せんし)内親王を出産し、難産のため数日後に主殿寮で亡くなる。子は3男4女。贈皇太后、太皇太后。38歳。宇治陵(宇治市)に葬られる。
 安子について、『大鏡』『村上天皇御記』に記されている。安子を中心とした後宮は栄えている。父・師輔は権勢を振るい、兄弟の伊尹(これまさ)・兼通・兼家の立身につながり、一族の繁栄をもたらした。村上天皇の信任も厚く、安子は天皇に助言している。村上天皇は師尹(もろただ)の娘・小一条女御芳子を寵愛し、女御にしたため安子は嫉妬した。(『大鏡』)。安子の同母妹・登子の入内も拒否した。950年、憲平親王の立太子に際して、藤原元方の娘・祐姫(すけひめ)が村上天皇の第1皇子・広平(ひろひら)親王を既に産んでいた。師輔父娘は、立太子を逸したため落胆し、953年、元方が亡くなり、その後、祐姫も相次いで死亡した。この遺恨が後の「物の怪」騒動になり、冷泉天皇の狂気、安子の難産死の原因と噂された。
◆陵墓 方形塚で南面している。964年、4月29日 に藤原安子は京都で亡くなる。その後、この地(愛宕郡東南の野 、愛宕郡東南の野 、神楽岡の西北の地)で火葬されたという。陵墓は宇治陵(宇治市)になる。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、ウェブサイト「コトバンク」


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