|
|
慶頼王墓 (京都市左京区) Imperial mausoleum of prince Yoshiyori |
|
慶頼王墓 | 慶頼王墓 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() 「皇太子慶頼王墓 中宮藤原安子火葬塚 参道」の石標 ![]() ![]() ![]() ![]() |
慶頼王墓(よしより/やすより-おう-はか)は、吉田牛ノ宮町にある。 かつて、一帯は「吉田野(よしだの)」と呼ばれ、「身隠ノ森(みがくしのもり)」が広がっていた。森には貴人の火葬地があるとされていた。 ◆歴史年表 平安時代、925年、6月19日/18日(新暦7月12日)、慶頼王が亡くなる。6月22日、神楽岡に葬られた。 ◆慶頼王 平安時代中期の皇族・慶頼王 (よしより/やすより-おう、921-925)。第60代・醍醐天皇の第2皇子・保明(やすあきら)親王の第1王子。母は藤原時平の娘・藤原仁善子(ふじわら-の-にぜこ)。923年、醍醐天皇の皇太子だった父没後、天皇は保明親王の母・藤原穏子(おんし)を立后させ、3歳の慶頼王を皇太子(皇太孫)に立てた。925年、慶頼王は病により早世する。5歳。慶頼王墓(左京区)がある。 保明親王、慶頼王父子の相次ぐ死は、菅原道真(845-903)を追い落とした藤原時平への道真の祟りによるとの噂が立つ。慶頼王の没後、925年、3歳の寛明親王(第61代・朱雀天皇)が皇太子になり即位する。寛明親王は、醍醐天皇の第11皇子であり、母は藤原基経の娘・穏子だった。寛明親王は、慶頼王の叔父に当たる。寛明親王も道真の祟りを怖れられ、御殿内で昼夜灯の下、御帳台の中で養育されたていたという。 ◆墓 慶頼王墓は西面し、円墳という。 *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|