光照寺・山科本願寺跡(南殿跡) (京都市山科区)
kKosho-ji Temple
照寺・山科本願寺跡(南殿跡) 照寺・山科本願寺跡(南殿跡) 
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蓮如上人御塚道  


蓮如上人南殿御旧地

「妙好人さと女の生家 こりれより東三百米」の石碑








蓮如像



山科本願寺南殿跡の碑
光照寺境内南に遺されている。




山科本願寺南殿跡全景、「史跡 山科本願寺南殿跡 附 山科本願寺土塁跡」の石標



山科本願寺南殿跡、築山、池、土塁、濠など大規模な遺構。


遺構の概略図、参考文献『中世庭園文化史』より、名称を一部加筆
 山科の光照寺(こうしょうじ)は、蓮如が隠居した山科本願寺南殿跡に建てられている。
 山号は泉水山という。真宗大谷派末寺。
◆歴史年表 室町時代、1478年、本願寺8代・蓮如は、山科本願寺を建立した。
 1489年、南殿が建てられた。蓮如は南殿に隠居している。
 1499年、3月、蓮如は南殿で亡くなる。
 1532年、近江守護職・六角定頼、法華宗徒により山科本願寺が破却され、その際に南殿も焼失している。
 1536年、東本願寺家老・栗津家の祖・元昌が南殿の遺構に、泉水山光称寺を建立した。その後、光照寺に改称されている。 
 近代、1872年、若宮八幡宮の神宮寺である観音寺の十一面千手観音は光照寺に一時遷されている。
 現代、2001年、南殿跡の初めての発掘が行われている。その後、数度の発掘調査が続けられている。
◆蓮如  室町時代の真宗の僧・蓮如(れんにょ、1415-1499)。第7代・存如の長男として東山大谷に生まれた。母は祖母の侍女という。1420年、6歳の時、母が本願寺を去る。継母・如円の下で育つ。1431年、17歳で青蓮院で得度、中納言・広橋兼郷の猶子となる。比叡山、興福寺で修行したという。1442年、如了尼と結婚する。1449年、東国布教に出る。1457年、父の死により本願寺第8代となる。1465年、比叡山衆徒により本願寺は破却された。近江に逃れる。(寛正の法難)。1468年、延暦寺は堅田を攻撃する。(堅田大責)。1468年(1469年とも)、大津近松に移り、祖像を遷す。1469年、東国に修行に行く。1471年、越前・吉崎に襲撃を避けて道場、吉崎御坊を開く。1473年、『正信偈・和讃』開版。1474年、文明の加賀一向一揆が起こる。1475年、一向一揆に敗走し、河内出口に向かう。1478年、山科野村に移る。林の寄進を受け寺内町の建設を計画する。1483年、本願寺を再興し、山科での布教を続けた。1488年、長亨の加賀一揆が起こる。1489年、山科本願寺南殿に隠居した。1496年、大坂石山に坊舎を建て妻子と隠棲した。1499年、山科本願寺に戻り亡くなる。
 蓮如は1461年以後、現世利益ではなく、救われて仏となること、師による恩ではなく教説による仏恩を説き、布教に御文(おふみ)(御文章[ごぶんしょう]) を用いた。「南無阿弥陀仏」などと書かれた掛け軸の御名号(おみょうごう)、門徒の組織である講、親鸞の教えの木版印刷などを通じた布教により教団の急拡大を行った。
◆建築 表門、本堂、庫裡、鐘楼が建つ。
山科本願寺・南殿 室町時代、1478年、本願寺8代・蓮如は山科野村に移る。海老名五郎左衛門尉より林(4、5丁)の寄進を受け、寺内町の建設を計画する。計画的に構築された都市として定着した最初の寺内町といわれている。
 1478年、山科本願寺は蓮如により創建された。場所は現在の山科中央公園付近(西野陶芸沢町など6町)になる。1465年の大谷破却以後、北陸の吉崎より拠点を移し、15年ぶりの再建を果たした。
 山科本願寺の境内は、東西800m、南北1000mあり、三重構造になっていた。第1郭「御本寺」には御影堂、阿弥陀堂、寝殿などが建ち並んでいた。第2郭「内寺内(内寺内家中)」は、その北、東、南にあり、法主家族、坊官の屋敷町、経豪の寺院、多屋(他屋)などがあった。さらに北東の第3郭「外寺内」には職人・商人が住んだ。北西には、海老名家の西宗寺があった。また、南端の第4郭には、在家信者の町屋が建ち並び、これらの寺内町から成った。
 山科本願寺一帯は、中世環濠城塞都市を形成した。山科本願寺は寺院であり、輪郭式の平城・城郭としても機能した。その築城には北陸信徒が関わっている。北、東、南面のそれぞれの郭と外周に、二重の土塁と濠が巡らされ、北西には西宗寺が配置された。また、横矢がかかる虎口、土塁の折邪(おりひずみ、クランク形状)などの防御面も強化されていた。これらは、本格的な近世の城郭が現れる1世紀も前に先取りするものだった。
 1489年、蓮如は本願寺東1㎞ほどのところに隠居寺(光照寺付近)を設け、1499年にこの地で亡くなっている。また、西宗寺で亡くなったともいう。寺は、本願寺の北殿に対し南殿と呼ばれた。南殿は周囲200m四方あり、やはり土塁と濠に囲まれていた。敷地内には、園池、築山、持仏堂、山水亭、台所などを備えていた。
 1532年、六角氏と法華宗徒により山科本願寺も南殿も破却され焼失している。
◆遺構 現在、山科本願寺跡は、公園を中心に土塁、土塁跡が残されている。
 南殿跡は、光照寺境内周辺に、築山、園池、土塁、濠などが残されている。2001年以降に数度の発掘が続けられている。遺構は、2002年に国指定文化財「山科本願寺南殿跡附山科本願寺土塁跡」になった。
 遺構は現在の境内の南東にあり、東南に土塁跡・濠跡が見つかっている。発掘調査により、南殿は、二重の土塁(外郭、内郭)に囲まれていたことが明らかになった。内郭は方形ではなく台形をしており、南北125m、東西100mの規模があった。防御的な土塁跡は、幅5m、高さ1.18mあり、裾の部分が石で補強されていた。2段堀の構造になっており、堀跡は幅8.5m、深さ1.2m、別のものは幅2.3m、深さ1.1mあった。南殿焼失後に、再度掘られたとみられている。
 境内の南中央に南門跡がある。境内の中央に庭園があった。東西方向に2つの築山があり、その間に園池が広がっていた。境内の東より南北に外に湾曲して遣水跡があった。東の築山南に持仏堂が建てられていた。園池の南に山水亭跡があった。庭園の西に台所跡が見つかっている。
◆文化財 「野村本願寺古御屋敷之図」。
◆妙好人 門前に「妙好人さと女の生家 こりれより東三百米」の石碑が立てられている。
 「妙好人」とは「浄土真宗の在俗の篤信者」を意味している。語源は、梵語の「プンダリーカ」、当て字は「芬(分)陀利華(ふんだりけ)」、訳は「白蓮華」になる。
 江戸時代に、岩見国の仰誓(ごうせい)は、全国の念仏者を『妙好人伝初篇』(1818年)で紹介した。女性も含まれていた。多くは農民、被差別者などで、以来、下層の篤信者を意味するようになった。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の城 洛中洛外の城郭』『遺跡から見た京都の歴史』『京都・山城寺院神社大事典』『事典 日本の名僧』『日本の名僧』『山科の歴史を歩く』 『山科事典』、ウェブサイト「コトバンク」



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