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維新殉難志士墓 (京都市西京区) Grave of loyalists |
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維新殉難志士墓 | 維新殉難志士墓 |
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![]() 駒札 ![]() 「維新殉難志士墓在此丘上」の石標 ![]() ![]() ![]() ![]() 楳本僊之助の墓 ![]() 相良新八郎の墓 ![]() 相良頼元の墓 |
樫原(かたぎはら)の丘にある樫原共同墓地の一角に、「維新殉難志士墓(いしん-じゅんなんしし-はか)」と呼ばれる3基の墓石が並んで立てられている。墓地入口には「樫原札の辻 三士殉難の地」の駒札が立つ。 幕末、禁門の変(禁門の変)で斬殺された長州藩、薩摩藩3人がこの地に埋葬された。 ◆歴史年表 江戸時代、1864年、旧7月21日、長州藩・楳本僊之助(うめもと-せんのすけ)、薩摩藩・相良新八郎(さがら-しんぱちろう)、薩摩藩・相良頼元(さがら-よりもと)兄弟は、樫原で幕府方に斬殺された。その葬儀が高円寺(西京区樫原塚ノ本町)で行われる。その後、岡村(樫原)の庄屋・松尾喜兵衛が指揮をし、丘の中腹、樫原共同墓地に埋葬した。 近代、1904年、7月、村民の要望により3柱を墓石に改め、石標「維新殉難志士墓在此丘上」が立てられた。 ◆楳本 僊之助 江戸時代後期の勤皇の志士・楳本 僊之助(うめもと-せんのすけ、?-1864)。詳細不明。男性。長州藩士。1864年、禁門の変で、樫原で殉職した。 墓は樫原共同墓地・維新殉難志士墓(西京区樫原)にある。 ◆相良 新八郎 江戸時代後期の勤皇の志士・相良 新八郎(さがら-しんぱちろう、?-1864)。詳細不明。男性。薩摩藩士。下野宇都宮藩とも。脱藩後、宇都宮兵と行動を共にした。1864年、禁門の変で、久留米の真木和泉守の清側義軍(せいそくぎぐん)に参戦した。樫原で斬殺された。1900年、「旧鹿児島相良頼元同相良新八郎」を靖国神社へ合祀する陸軍省告示が出た。 墓は樫原共同墓地・維新殉難志士墓(西京区)にある。 ◆相良 頼元 江戸時代後期の勤皇の志士・相良 頼元(さがら-よりもと、?-1864)。詳細不明。男性。薩摩藩士。下野宇都宮藩とも。脱藩後、宇都宮兵と行動を共にした。1864年、禁門の変で、久留米の真木和泉守の清側義軍(せいそくぎぐん)に参戦した。樫原で斬殺された。1900年、「旧鹿児島相良頼元同相良新八郎」を靖国神社に合祀する陸軍省告示が出た。 墓は樫原共同墓地・維新殉難志士墓(西京区)にある。 ◆禁門の変 江戸時代後期、1863年の八月一八日の政変で、長州藩は京都を追われ、禁門警備の任を解かれた。1864年、禁門の変(蛤御門の変)で、長州藩は勢力奪回を図って敗れた。 1864年旧7月19日、長州勢の相良兄弟は浪士隊清側義軍の総管・真木和泉(1813-1864)の清側義軍(せいそくぎぐん)に参戦する。堺町御門を目指して進軍した。福井藩兵などに阻まれ、3人は真木らとともに天王山に向う。荷廻の宰領1人を伴い、桂川上野橋を渡る。松尾下野田、物集街道を南下し、樫原札の辻に差し掛かった。この地には油商・小泉仁左衛門邸があった。幕府方は待ち伏せしており、小浜方100人、大砲4門で固めていた。 しんがりを務めた3人は、樫原三ノ宮神社御旅所前のおゆき婆さんの家、札ノ辻、物集街道でそれぞれ追手方と斬り合いになった。3人は幕府兵6、7人を斬った。だが、小浜藩士に斬殺される。 遺骸は放置され、甲冑はおゆき婆さんから村役人を経て、長州藩京屋敷に届けられた。相良兄弟について薩摩藩京屋敷は、自藩士ではないとし門前払いにした。 村民は密かに3人の遺骸を埋葬する。旧7月21日、高円寺(西京区樫原塚ノ本町)で密かに葬儀が行われる。岡村(樫原)の庄屋・松尾喜兵衛が指揮をし、丘の中腹、樫原共同墓地(西京区樫原秤谷町)に埋葬した。木標「元治元年の役殉難者官修墳墓墓地」が立てられた。 近代、1904年7月、村民の要望により3柱を墓石に改め、石標「維新殉難志士墓在此丘上」が立てられる。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 京都市の駒札、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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