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高円寺 (京都市西京区) Koen-ji Temple |
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高円寺 | 高円寺 |
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樫原(かたぎはら)の高円寺(こうえん-じ)は、「塚の堂」とも呼ばれている。 幕末、禁門の変(禁門の変)で斬殺された長州藩、薩摩藩3人の葬儀が当寺で行われた。 浄土宗西山派。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 江戸時代、1484年、現在の建物が建てられた。 1864年、旧7月21日、当寺で長州藩・楳本僊之助(うめもと-せんのすけ)、薩摩藩・相良新八郎(しんぱちろう)、頼元(よりもと)兄弟の葬儀が行われている。 ◆楳本 僊之助 江戸時代後期の勤皇の志士・楳本 僊之助(うめもと-せんのすけ、?-1864)。男性。長州藩士。1864年、禁門の変(蛤御門の変)で、樫原で斬殺された。 墓は共同墓地・維新殉難志士墓(西京区樫原秤谷町)にある。 ◆相良 新八郎 江戸時代後期の勤皇の志士・相良 新八郎(さがら-しんぱちろう、?-1864)。男性。頼元は弟になる。薩摩藩士。下野宇都宮藩とも。脱藩後、宇都宮兵と行動を共にした。1864年、禁門の変(蛤御門の変)で、久留米の真木和泉守の清側義軍(せいそくぎぐん)に参戦した。樫原で斬殺された。1900年、「旧鹿児島相良頼元同相良新八郎」を靖国神社へ合祀する陸軍省告示が出た。 墓は共同墓地・維新殉難志士墓(西京区樫原秤谷町)にある。 ◆相良 頼元 江戸時代後期の勤皇の志士・相良 頼元(さがら-よりもと、?-1864)。新八郎は兄になる。薩摩藩士。下野宇都宮藩とも。脱藩後、宇都宮兵と行動を共にした。1864年、禁門の変(蛤御門の変)で、久留米の真木和泉守の清側義軍(せいそくぎぐん)に参戦した。樫原で斬殺された。1900年、「旧鹿児島相良頼元同相良新八郎」を靖国神社に合祀する陸軍省告示が出た。 墓は共同墓地・維新殉難志士墓(西京区樫原秤谷町)にある。 ◆勤王家殉難地 江戸時代後期、1863年の八月一八日の政変で、長州藩は京都を追われ、禁門警備の任を解かれた。1864年、禁門の変(蛤御門の変)で、長州藩は勢力奪回を図って敗れた。 1864年旧7月19日、長州勢の相良兄弟は浪士隊清側義軍の総管・真木和泉(1813-1864)の清側義軍(せいそくぎぐん)に参戦する。堺町御門を目指して進軍した。福井藩兵などに阻まれ、3人は真木らとともに天王山に向う。荷廻の宰領1人を伴い、桂川上野橋を渡る。松尾下野田、物集街道を南下し、樫原札の辻に差し掛かった。この地には油商・小泉仁左衛門邸があった。幕府方は待ち伏せしており、小浜方100人、大砲4門で固めていた。 しんがりを務めた3人は、樫原三ノ宮神社御旅所前のおゆき婆さんの家、札ノ辻、物集街道でそれぞれ追手方と斬り合いになった。3人は幕府兵6、7人を斬った。だが、小浜藩士に斬殺される。 遺骸は放置され、甲冑はおゆき婆さんから村役人を経て、長州藩京屋敷に届けられた。相良兄弟について薩摩藩京屋敷は、自藩士ではないとし、門前払いにした。 村民は密かに3人の遺骸を埋葬する。旧7月21日、高円寺(西京区樫原塚ノ本町)で密かに葬儀が行われる。岡村の庄屋・松尾喜兵衛が指揮をし、丘の中腹、樫原共同墓地(西京区樫原秤谷町)に埋葬した。木標「元治元年の役殉難者官修墳墓墓地」が立てられた。 近代、1904年7月、村民の要望により3柱を墓石に改め、石標「維新殉難志士墓在此丘上」が立てられる。 ◆塚本古墳 境内に円墳(樫原塚ノ本町)があるという。高園寺(こうえんじ、樫原塚ノ本町)?ともいう。詳細は不明。現在は半壊状態という。径30m。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、『京都市の地名』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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