後土御門天皇後宮 贈皇太后朝子 般舟院陵 (京都市上京区)  
Imperial mausoleum of Empress Dowager Asako(Hanjuin-no-misasagi)
贈皇太后朝子 般舟院陵 贈皇太后朝子 般舟院陵
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宝篋印塔






石仏


石仏


石仏

 般舟院陵(はんじゅういん の みささぎ)には、室町時代の第103代・後土御門天皇の典侍(贈皇太后)・庭田朝子(にわた あさこ)が葬られている。
 室町時代の第102代・後花園天皇、第103代・後土御門天皇、第105代・後奈良天皇などの分骨塔、そのほか皇室・皇子・皇女など20基の宮墓地になる。
◆歴史年表 室町時代、1492年、7月20日(新暦8月13日)、庭田朝子が亡くなる。
 1504年、朝子の13回忌法会が執り行われた。
 安土・桃山時代、1595年、豊臣秀吉の伏見城下町の建設に伴い、伏見指月里(伏見区)より、陵墓も移転したとみられている。(『和長卿記』)
◆庭田 朝子 室町時代の第103代・後土御門天皇の典侍・皇太后・庭田(源)朝子(にわた あさこ、1437-1492)。蒼玉門院(そうぎょくもんいん)。父は権大納言・庭田長賢(政賢、重賢)。足利将軍家に仕えた。成仁親王(後土御門天皇)に召され、近衛局と称した。天皇の寵愛を受ける。1464年、勝仁(かつひと)親王(第104代・後柏原天皇)、1473年、尊伝入道親王を産む。典侍になる。新大典侍と称した。1486年、名代として伊勢神宮に参詣した。1492年、准三位、准三宮。1504年、後柏原天皇の即位後に皇太后宮の称号が贈られた。
 墓は般舟院陵(上京区)になる。
◆尊伝入道親王 室町時代の第103代・後土御門天皇の皇子・尊伝入道親王(そんでん にゅうどう しんのう、1473-1504) 。尊敦。法号は不遠院。後土御門天皇の第2皇子。母は源朝子。天台宗・青蓮院門跡尊応に師事した。1476年、親王、1488年、得度した。33歳。
 墓は般舟院陵(上京区)域内にある。
◆嘉楽門院 室町時代の第102代・後花園天皇の女御・嘉楽門院(からく もんいん、1411-1488) 。藤原信子(ふじわら の のぶこ)。右馬助・藤原孝長(たかなが)の娘。内大臣・大炊御門(おおいのみかど)信宗の養女。後花園天皇の後宮に入る。1434年、観心女王を産む。1442年、成仁親王(後土御門天皇)を産む。1466年、従二位になり二位局と称せられる。後花園天皇の没後、1471年、出家、准三宮になる。1481年、院号を受けた。法名は栄良。
 墓は般舟院陵(上京区)域内にある。
後花園天皇 室町時代の第102代・後花園天皇(ごはなぞの てんのう、1419-1470)。彦仁(ひこひと)。後文徳(ごもんとく)院、後花園院。法名は円満智。伏見宮3代貞成(さだふさ)親王(後崇光院贈天皇)の第1皇子、母は庭田経有(つねあり)の娘・敷政門院(ふせいもんいん)幸子(こうし)。北朝の崇光天皇の曾孫。兄に一休宗純。1428年、第101代・称光天皇は病死し、天皇に嗣子がなかった。後小松上皇(第100代)の猶子として、将軍・足利義教に嗣立された。義教は朝廷に介入した。1429年、即位し、後小松上皇は院政を執る。皇位は持明院統嫡流の崇光天皇流に復帰した。1433年、後小松上皇没後、親政を開始した。1438年、永享の乱で治罰綸旨の発し朝敵制度が復活する。以後、天皇の政治的権威は上昇する。1441年、嘉吉の変で赤松満祐の討伐に治罰綸旨(ちばつ りんし)が出される。1444年、弟・伏見宮貞常王(さだつねおう)に親王宣下を行う。1464年、皇太子・成仁(ふさひと)親王(第103代・後土御門天皇)に譲位し、院政を敷いた。1461年、大飢饉の中で山荘造営した将軍・足利義政に漢詩を贈り戒めた。1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)で、畠山政長への治罰綸旨が乱の発端になり、恥じ仮御所で密かに出家した。後土御門天皇とともに左大臣・二条政嗣の仮御所の室町第に移り、ここで没した。
 足利義満の皇位簒奪未遂以後の皇権を回復した。人々の救済のために、心境経書写し、醍醐寺三宝院・義賢に命じて供養させた。和歌・管弦、和漢に通じた。『御製和歌集』、成仁親王に心得を記した「後花園院御消息」、日記『後花園院御記』がある。
 陵墓は後山国陵(右京区京北)にある。火葬塚は大応寺(上京区)境内に山形、空堀がある。分骨所は、般舟院陵(上京区)域内に宝篋印塔、金剛寺内(大阪府河内長野市)にもある。
◆後土御門天皇 室町時代後期の第103代・後土御門天皇(ごつちみかど てんのう、1442-1500)。成仁(ふさひと)、法名は正等観。第102代・後花園天皇の第1皇子、母は藤原孝長の娘・嘉楽門院信子(内大臣・大炊御門信宗の猶子) 。1457年、親王宣下。1458年、元服した。1464年、父・後花園天皇の譲位を受けて践祚し、1465年、即位した。以後、天皇の終身在位が定着した。1466年、将軍・足利義政の跡目争いを背景とした文正の政変が起こる。大嘗会を挙行した。1467年-1477年、応仁・文明の乱が起こり、1467年、義政の室町第が仮御所になり、後花園上皇、後土御門天皇が移る。1471年、親政を開始した。皇居も転々とし、1479年、土御門内裏へ移った。大葬にあたり、幕府は費用を用意できず、遺骸は内裏黒戸に40余日も置かれたという。
 戦禍、御料地も失い皇室式微により、財政は窮乏する。朝儀も途絶え、天皇は5度も譲位を考えた。日野富子は援助し、富子、日野勝光らが政治介入した。浄土宗に深く帰依した。吉田兼倶の神異密奏に勅許を与える。三節会など廃絶した朝儀再興とともに、有職故実、儀式の習礼を奨励した。和歌、連歌に秀で、歌集『紅塵灰集』などがある。
 陵墓は深草北陵(伏見区)になる。分骨所は、般舟院陵(上京区)域内に宝篋印塔、後山国陵(京北町)域内に方形、灰塚は、月輪陵(東山区)域内に方形がある。
◆豊楽門院 室町時代の第104代・後柏原天皇の典侍・豊楽門院(ぶらく もんいん、1464-1535)。勧修寺藤子(とうこ)。准大臣・勧修寺教秀(かじゅうじ のりひで)の娘。母は飛鳥井雅永(あすかい まさなが)の娘。1484年、勝仁親王(後柏原天皇)の東宮の時に後宮に入る。阿茶局、新大納言典侍と呼ばれた。1487年、覚鎮女王、1497年、知仁(ともひと)親王(第105代・後奈良天皇)、1500年、勝仁親王の践祚に伴い典侍になる。1504年、尊鎮入道親王を産む。1521年、正五位下、1526年、天皇没後、落飾した。知仁(ともひと)親王の践祚により、従三位、准三宮になる。寺社を度々参詣した。1535年、没時に、国母准后として院号宣下された。
 墓は般舟院陵(上京区)域内にある。
◆後奈良天皇 室町時代の第105代・後奈良天皇(ごなら てんのう、1497-1557)。知仁(ともひと)。第104代・後柏原天皇の第2皇子。母は勧修寺教秀(かじゅうじ のりひで)の娘・藤原藤子(豊楽門院)。勧修寺政顕邸で生まれた。1512年、親王宣下、元服する。1526年、父・後柏原天皇の死去を受けて践祚、即位した。直後に、丹波・柳本賢治らが阿波国・細川晴元らと呼応して反乱を起こし、その後、畿内は内戦になる。朝廷の財政逼迫し、即位式は行われなかった。献金により、践祚、大葬が行われた。1536年、践祚の10年後に、周防・大内義隆、後北条、今川、朝倉らの献金により即位の大礼が改めて行われた。1540年、疾役が流行し、醍醐寺三宝院大僧正・義堯に不動不法を修させた。また、1540年-1545年頃、疫病退散、災厄を祈禳し、宸筆『般若心経』書写を24カ国の一宮社に奉納した。
 皇室式微により御所の築地も修復されず、紫宸殿の間近で茶を売るものも現れたという。戦国大名に官位を叙任し、長尾・上杉氏らに私敵追討綸旨を発給した。安土・桃山時代の「王朝回復」の先駆けになる。三条西実隆・公条らに和漢の書の講義を受けた。古典の書写、保存に努める。和歌、詩文を好み、歌集『奈曾』、宸筆日記『天聴集』があり基本史料になる。名筆として知られた。天文年間(1532-1555)の宸筆『般若心経』は大覚寺心経殿、醍醐寺、阿波・伊豆などの一宮に残る。
 陵墓は深草北陵(伏見区)になる。分骨所は、般舟院陵(上京区)域内に宝篋印塔がある。灰塚は、月輪陵(東山区)域内に方形がある。
◆高仁親王 江戸時代前期の第108代・後水尾天皇の皇子・高仁親王(すけひと しんのう、1626-1628)。後水尾天皇の第2皇子。母は徳川和子(東福門院)。1626年、親王、皇太子になる。法号は真照院。
 墓は般舟院陵(上京区)域内にある。
◆菊宮 江戸時代前期の第108代・後水尾天皇の皇女・菊宮(1633-1634)。後水尾天皇の第7皇女、母は中宮・徳川和子(東福門院)。
 墓は般舟院陵(上京区)域内にある。
◆礼成門院
 江戸時代前期-中期の第110代・後光明天皇の皇女・礼成門院(れいせい もんいん、1650-1725。幼称は女一宮。孝子。後光明天皇の第1皇女。母は庭田秀子。1683年、内親王となる。1725年、准三宮となり、同日死去した。
 墓は般舟院陵(上京区)域内にある。
◆正源院宮 江戸時代前期の第111代・後西天皇の皇女・正源院宮(しょうげんいんのみや、1657-1658)。女二宮。後西天皇の第2皇女。母は権大納言・清閑寺共綱の娘・藤原共子。1658年、亡くなる。2歳。
 墓は般舟院陵(上京区)域内にある。
◆盛子内親王 江戸時代中期の第115代・桜町天皇の第1皇女・盛子内親王(もりこ ないしんのう、1738-1746)。幼称は美喜宮(みきのみや)。桜町天皇の第1皇女。母は青綺門院。1740年、内親王。二品。10歳。
 墓は般舟院陵(上京区)域内にある。
◆礼仁親王 江戸時代後期の第119代・光格天皇の皇子・礼仁親王(やひと しんのう、1790-1791)。哲宮(あきのみや)。光格天皇の第1皇子。母は大納言・葉室頼煕の娘・葉室頼子。1791年、親王宣下、戒名は宝鈴院宮 。
 墓は般舟院陵(上京区)域内にある。
◆能布宮 江戸時代後期の第119代・光格天皇の皇女・能布宮(1792-1793)。寿賀宮。光格天皇の第1皇女。母は大納言・葉室頼煕の娘・葉室頼子。
 墓は般舟院陵(上京区)域内にある。
◆式子内親王 鎌倉時代の第77代・後白河天皇の皇女・式子内親王(しょくし/しきし ないしんのう、1151?-1201)。第77代・後白河天皇の第3皇女。母は藤原季成の娘成子(高倉三位)。1159年、賀茂斎院の卜定を受け11年間仕えた。1169年、病気を理由に退下、三条高倉殿に移る。藤原定家が何度か訪れたという。定家との恋も囁かれた。1185年、准三宮宣下を受ける。1192年、法皇没後、戒師・法然により出家した。病になる。藤原俊成に和歌を学び、俊成の『古来風体抄』(1197)は内親王の求めに応じて執筆された。家集に『式子内親王集』。『千載和歌集』に採歌。
 代表作の「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」(「小倉百人一首」)の相手とは、法然であったともいわれている。法然は八条殿で女人往生を説いた。内親王が病により余命わずかにとなり、法然に逢ってほしいと乞うが法然は長い手紙を返してそれを制した。
 般舟院陵に塚といわれる塔が立つ。
◆墓陵 ◈般舟院陵には室町時代の第103代・後土御門天皇の典侍(贈皇太后)・庭田(源)朝子墓、天皇の分骨所(分骨塔)、皇室の20基の墓(宝篋印塔、宝塔、無縫塔)などがあり、そのうち6基が治定外になっている。これらの陵は、伏見よりの移転の際に移されたとみられている。
 103代・後土御門天皇贈皇太后・庭田(源)朝子墓、第103代・後土御門天皇分骨所、後土御門天皇皇子・尊伝親王墓。
 第102代・後花園天皇分骨所、後花園天皇後宮・嘉楽門院藤原信子墓。
 第105代・後奈良天皇分骨所。
 第104代・後柏原天皇後宮・豊楽門院藤原藤子墓。
 第108代・後水尾天皇皇子・高仁親王墓、後水尾天皇皇女・菊宮墓。
 第110代・後光明天皇皇女・孝子内親王墓。
 第111代・後西天皇皇女・女二宮墓。
 第115代・桜町天皇皇女・盛子内親王墓。
 第119代・光格天皇皇子・礼仁親王墓、光格天皇皇女・寿賀宮墓。
 ◈第77代・後白河天皇第3皇女で賀茂斎院の式子内親王(1149-1201)の塚という石造五輪塔が立つ。
◆石仏 石仏は鎌倉時代作であり、厚肉彫り、蓮華座に定印の阿弥陀如来坐像になる。式子の墓標ともいう。付近は歌人・藤原定家(1162-1241)の時雨亭跡ともいう。石仏は陵移転以前よりあり、「定家葛(かつら)の墓」ともいう。かつて、大聖歓喜寺内にあったともいう。(『応仁記』巻3)。謡曲「定家」では、定家の式子内親王への執心が葛になり、墓に巻きついたとの伝承になった。花崗岩製、1.4m。
 ほかに薬師如来、地蔵菩薩などが複数体がある。


北6・100 後小松天皇(在位:1382-1412)→101 称光天皇(在位:1412-1428) →102 後花園天皇(在位:1428-1464)→103 後土御門天皇(在位:1464-1500)→104 後柏原天皇(在位:1500-1526)→105 後奈良天皇(在位:1526-1557)→106 正親町天皇(在位:1557-1586) 


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『歴代天皇・皇后総覧』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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