花山天皇 紙屋川上陵 (京都市北区)  
Imperial mausoleum of Emperor Kazan
花山天皇 紙屋川上陵 花山天皇 紙屋川上陵
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「花山天皇 紙屋川上陵 」の石標


 衣笠北高橋町に 紙屋川上陵(かみやがわ の ほとり の みささぎ)はある。平安時代中期の第65代・花山天皇(かざん てんのう)が葬られている。法音寺北陵、紙屋上陵とも呼ばれた。
◆歴史年表 平安時代、1008年、2月8日、花山天皇は亡くなる。2月17日夜亥の刻、「紙屋川の上法音寺の北」(『日本紀略』)、また、「大和寺東辺」(『御堂関白記』)に葬られた。遺詔により葬儀は凡人に等しかったという。
 その後、両寺は廃れ、陵の所在地は不明になる。
 江戸時代、1862年-1863年、文久の修陵では、「字 法音寺屋敷」の北にある菩提塚を法音寺跡とし、陵として修補した。
 1865年、5月、陵は完成した。
 近代、1895年、陵名は紙屋上陵に改められる。
◆花山天皇 平安時代中期の第65代天皇・花山天皇(かざん てんのう、968-1008)。師貞(もろさだ)。花山院。第63代・冷泉天皇の第1皇子、母は藤原伊尹(これただ)の娘・懐子(かいし)。969年、立太子。比叡山、熊野などで修行する。正暦年間(990-995)、帰京し、東院(花山院)に住んだ。984年、第64代・円融天皇の譲位後に17歳で践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)し、即位した。藤原頼忠(よりただ)が関白になる。986年、寛和の変により外祖父・右大臣・藤原兼家(道長の父)、道兼父子が退位を画策した。兼家の孫の皇太子・懐仁(やすひと)親王の即位を急ぐためだった。寵愛した身重の女御・忯子(よし子)が亡くなる。天皇は、兼家に謀られて深夜に宮中を脱出し、元慶寺(花山寺)で出家し入覚と称した。懐仁親王(第66代・一条天皇)が即位する。その後、播磨国・書写山円教寺の性空(しょうくう)に結縁、比叡山、熊野などで仏道修行に励む。正暦年間(990-995)、帰京し、東院(花山院)に住んだ。996年、花山法皇襲撃事件では、法皇が藤原為光の娘に通い、誤解が元で中関白家の内大臣・藤原伊周・隆家に矢で射られる。
 饗宴の禁制、荘園整理令を布告する。書写山、比叡山、熊野などの霊場を巡歴した。天皇の観音巡礼により西国三十三箇所巡礼が中興されたとの伝承が生まれる。「風流者」と称され、芸能、建築、絵画、工芸、造園に造詣が深かった。和歌に優れ、藤原長能(ながよし)らに『拾遺和歌集』を編じさせた。歌は『花山院集』に収められている。
 陵墓は紙屋上陵(北区)にある。
◆陵墓 陵墓は、方丘であり南面している。空堀がある。
 平安時代、1008年2月8日、花山天皇は亡くなる。2月17日夜亥の刻、「紙屋川の上法音寺の北」(『日本紀略』)、また、「大和寺東辺」(『御堂関白記』)に葬られた。遺詔により葬儀は凡人に等しかったという。その後、両寺は廃れ、陵の所在地は不明になる。江戸時代、1862年-1863年の文久の修陵では、「字 法音寺屋敷」の北にある菩提塚を法音寺跡とし、陵として修補した。1865年5月に、陵は完成した。近代、1895年に、陵名は紙屋上陵に改められる。


63 冷泉天皇(在位:967-969)→64 円融天皇 (在位:969-984)→ 65 花山天皇 (在位:984-986) →66 一条天皇 (在位:986-1011)

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『歴代天皇125代総覧』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 花山天皇 紙屋川上陵  〒603-8373  京都市北区衣笠北高橋町38
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