法性寺 (京都市東山区)
Hosho-ji Temple
法性寺 法性寺
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 鴨東にある法性寺(ほうしょう-じ/ほっしょう-じ)は、山号、院号を大悲山一音院(だいひ-ざん-いっとん-いん)という。
 浄土宗西山禅林寺派の尼寺。本尊は旧法性寺の遺仏とされる千手観音立像を安置する。
 洛陽三十三所観音巡礼第21番札所。
◆歴史年表 平安時代、924年、藤原忠平により、公家恒例被行脚の寺として建立された。開基は弁日による。また、天台座主・法性房尊意ともいう。鐘楼が建立され、南堂に四菩薩が安置された。以後、藤原氏の氏寺として繁栄した。
 925年、新堂(東堂)が完成し、五大尊を安置する。藤原忠平により落慶法要が行われる。
 929年、忠平の50歳の賀の際には、境内に本堂、東堂、南堂、大門、礼堂、鐘楼などが建ち並んでいた。(『扶桑略記』)。宇多法皇(第59代)は忠平の五十賀会を修した。後に、藤原実頼、忠平の子らも五十賀会を修した。
 承平年間(931-938)、第61代・朱雀天皇の時、御願寺になり御願堂2宇が建立される。
 934年、定額寺になり、年分度者が置かれる。(『日本紀略』)
 942年、皇太后は涅槃経供養を行い、多宝塔、一切経を供養を修した。
 945年、第60代・醍醐天皇中宮、皇太后・藤原穏子の多宝塔供養がある。(『貞信公記』)。第61代・朱雀天皇の御願寺になる。
 947年、法華八講を修した。
 948年、忠平は讃岐国の封30石を施入れする。
 949年、忠平が没し、遺体は法性寺に移され、その後、境内東北に葬られた。(『日本紀略』)
 952年、朱雀上皇が没し、法性寺東中尾南原陵に葬られ、座主・鎮朝が導師を務めたともいう。(『帝王編年記』)
 954年、第62代・村上天皇は、母・穏子没後、法性寺塔で供養、法会を行う。勅により造塔し、一切経5113巻を供養する。
 970年、藤原実頼の没後、子院とみられる東北院(松林寺は誤記とも)に葬られる。(『日本紀略』)
 981年、智証門徒の余慶を座主とする。だが、慈覚門徒の反発により辞した。
 1005年、藤原道長は五大堂を発願する。
 1006年、五大堂が完成し、異母兄・道綱により供養した。丈六五大明王の開眼が行われる。(『小右記』)
 1007年、藤原公季により三昧堂が建立される。(『小右記』)
 1013年、道長正室・北の方倫子は前年の病平癒の験があったとして、五壇法を修善する。
 1015年、五十賀法会を修した。
 1018年、道長は病により法性寺堂に参籠する。(『左経記』)
 1020年、道長は頼道の病により参籠する。(『左経記』)
 1031年頃、薬師堂が建立されたとみられる。(『左経記』)
 1090年、師通が神心不例により参籠し、五壇法を修した。
 8代・藤原忠通(1097-1164) の時、大伽藍や100棟を超える堂塔、伽藍が建てられ、京洛二十一カ寺の一つに数えられる。(『拾芥抄』)。境内は広大で、北は九条大路、南は伏見稲荷社北境、東は東山山麓、現在の東福寺までも含んでいた。西は鴨川に至る。忠通は自ら法性寺殿と呼び慣わした。
 1109年、白河法皇は曼荼羅堂を供養した。
 1147年、忠通は法性寺殿の新造宅を訪れる。正室・藤原宗子は御堂を建立し、後の最勝金剛院となる。
 1148年、第76代・近衛天皇が行幸する。最勝金剛院を供養する。
 その後、兵火により焼失している。
 鎌倉時代、1202年、九条兼実は当寺で出家し月輪殿、後法性寺殿と呼ばれた。
 1207年、承元の法難により流罪になった法然が立ち寄る。
 1239年、この地に九条道家が東福寺を建立し、 寺域はしだいに東福寺に取り込まれた。
 1243年、法性寺成就宮を東福寺鎮守とする。(『百錬抄』)
 南北朝時代、1333年、兵火により荒廃する。
 室町時代、1441年、債務破棄を求める土一揆(徳政一揆)で焼失する。
 1485年、東福寺門前を法性寺というと記されている。(『庶軒日録』)。この頃、法性寺の伽藍は失われていたとみられる。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)初頭、寺は廃絶する。
 江戸時代、寺屋敷と呼ばれたという。
 近代以降、旧名を継いで旧地付近に再建された。
◆藤原忠平 平安時代前期-中期の公卿・藤原忠平(ふじわら-の-ただひら、880-949)。男性。諡号は貞信公、別称は小一条殿、小一条殿、五条殿と称した。京都の生まれ。父・摂関・藤原基経、母・人康(さねやす)親王の娘の3男/4男。900年、参議になり、叔父・清経に譲る。908年、参議に再任された。909年、兄・時平の没後、権中納言に進み氏長者になった。910年、中納言、911年、大納言、914年、右大臣、924年、左大臣に任じられた。法性寺を建立する。926年、実弟・第62代・村上天皇の即位後も関白職は引き継ぎ、20年間にわたり摂関の地位にとどまる。927年、勅命により、時平が編纂を始めた『延喜格』『延喜式』を完成した。930年、宮中清涼殿の落雷では無事だった。第60代・醍醐天皇の没後、妹・穏子の産んだ第61代・朱雀天皇が8歳で即位する。自ら40年ぶりに復活させた摂政に就く。931年-947年、平将門・藤原純友が東国・西国で起こした承平・天慶の乱が起きる。932年、従一位に進み、936年、太政大臣になった。941年-949年、関白になる。949年、七十賀が行われ、自邸の小一条第で没した。日記『貞信公記』は公卿日記として最も古い。70歳。
 贈正一位。摂関政治の基礎を築く。有職故実に通じ、子・実頼(さねより)・師輔(もろすけ)に伝え、それぞれ小野宮流、九条流になる。師輔の筆録した『貞信公教命』が現存する。百人一首に入集。法性寺に葬られた。
◆康尚 平安時代中期-後期の仏師・康尚(こうじょう/こうしょう、 ?-?、10世紀末-11世紀初)。男性。康成(康浄、康常、康昭、康聖、康昌)、広尚、好常。定朝の父/師とも。比叡山の出身か関係深く、恵心僧都源信のもとで造仏を担当した。藤原道長、行成に重用された。991年、祇陀林寺(ぎだりん-じ)の丈六釈迦像を造立した。以後、宮廷・摂関家、比叡山・高野山関係の造像にも携わる。998年、僧籍を持つ仏師であり土佐講師に任じられる。1000 年、宮中寿殿の聖観音、梵天、帝釈天、1002年、御八講本尊、1004年、藤原行成の四天王像、1005年、藤原道長の法成寺五大堂の本尊(現存唯一の遺品とされる東福寺・同聚院の不動明王坐像)を造仏する。道長の白檀薬師像などを制作した。1018年頃、関寺5丈弥勒仏造像に際し近江講師になる。三大仏(ほかに東大寺大仏、智識寺の大仏)の一つと称された。1020年、道長の命により定朝と共に法成寺無量寿院の九体阿弥陀像を造立した。晩年、邸宅兼工房を営む。
 講師に任じられた最初の仏師であり、職業仏師の祖といわれる。仏所を形成し、仏像製作の受注体制、仏師の専業体制を確立した。図像に基づく仏像を製作し、貴族層の美的嗜好にあわせた作風を生む。寄木造を創案し、和様化を進め定朝様を準備した。弟子に寛仁(かんにん)、定朝などがいる。
◆藤原忠通 平安時代後期の公卿・藤原忠通(ふじわら-の-ただみち、1097-1164)。男性。別称は法性寺 (ほっしょうじ) 殿。父・関白・藤原忠実、母・右大臣・源顕房の娘・師子。1107年、元服、1110年、従三位、1115年、内大臣。1120年、父・忠実が娘・泰子(高陽院)の入内問題で蟄居になる。1121年-1158年、関白・氏長者になる。第74代・鳥羽天皇、第75代・崇徳天皇、第76代・近衛天皇、第77代・後白河天皇に摂政・関白として務めた。左大臣・太政大臣を経て従一位に至る。1129年、白河法皇没後、鳥羽院政により父・忠実が内覧として復帰し対立した。1150年、父より義絶され、氏長者は異母弟の頼長に奪われた。頼長は養女・藤原多子を近衛天皇の後宮に入れ、忠通は対抗し、藤原伊通の娘・呈子(九条院)を養女として後宮に入れた。1155年、近衛天皇没後の後嗣問題で、崇徳上皇と対立した鳥羽上皇(第74代)に後白河天皇の即位を助言した。これらは、1156年、保元の乱の一因になる。崇徳上皇方に付き、敗れた父の所領を相続、父の流罪を防いだ。1158年、乱後、崇徳上皇方に付いた父の所領を相続、父の流罪を防いだ。法性寺西殿に隠退し、御堂(浄光明院)に丈六の阿弥陀坐像(現在、万寿寺の本尊)を安置した。摂関職を子・基実に譲り、1162年、出家した。 法性寺関白と称された。68歳。
 和歌、漢詩に優れ、能書家であり法性寺流と称された。『金葉集』以下の勅撰集に入集。子孫は近衛家、九条家に分かれ、五摂家になる。和歌を好み、漢詩優れ、書風は法性寺流と称された。
 墓はかつて泉山(せんざん)にあり、1950年に東福寺の九条家墓地に移された。
◆九条兼実 平安時代後期-鎌倉時代前期の政治家・九条兼実(くじょう-よしみち、1149-1207)。男性。父・摂関家の藤原忠通、母・女房加賀(藤原仲光の娘)。1166年、右大臣になる。1156年、異母姉の皇嘉門院の猶子になる。1158年、兄・基実の猶子として元服した。左近衛権中将、権中納言、左近衛権中将、権大納言・右近衛大将、内大臣を経て、1166年、右大臣に進み、1174年、従一位に昇る。1179年、平清盛の権力奪取後、1185年、頼朝内覧の宣旨により、1186年、摂政・藤原氏長者になる。1187年、記録所を設ける。1189年、太政大臣、1190年、娘・任子を入内させ、第82代・後鳥羽天皇中宮にさせる。1192年、後白河法皇(第77代)没後、頼朝に征夷大将軍を宣下する。だが、1196年、政変により失脚した。弟の天台座主・慈円の後見になり仏教界に影響を及ぼす。息子、妻を亡くし法然に帰依した。1202年、出家、円証と号した。山荘の月輪殿に隠棲する。後法性寺殿、月輪殿と称された。
 和歌に親しみ、藤原俊成・定家らの庇護者になる。40年間の日記『玉葉』がある。 
 九条家を興した。内山に葬られた。墓は現在、東福寺内にあり、1881年、公爵・九条道孝が「発見」したという。ただ、確定されていない。59歳。
  1207年、承元の法難により法然が流される時、兼実の配慮で讃岐に留められたという。兼実は法然に「ふりすてて ゆくはわかれの はしなれど ふみわたすべきことを しぞとおもふ」と手紙を送る。法然は「露の身は ここかしこにて消えぬとも 心は同じ花のうてなぞ」との歌を返した。日記『玉葉』中では後白河法皇を批判した。
◆寺号 法性の寺名は、天台密教教義の法性(ほっしょう、法性身)に由来するという。仏の三身の一で永遠不滅の真理、理法としての仏をいう。
 また、平安時代の天台宗13世座主・法性坊尊意(866-940)の法性房に因むともいう。尊意は菅原道真の怨霊を鎮めたとされる
◆仏像 ◈本堂に安置されている「千手観音菩薩立像」(110/109.7㎝)(国宝)は、平安時代中期の作になる。藤原忠平が春日仏師に造らせたという。934年頃/924年、尊意が灌頂を修した際に造立されたとみられる。法性寺灌頂堂の本尊ともいう。室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)の兵火も免れた。
 藤原忠通が難病に罹った際に、祈祷すると数日で回復したことから、以来、「厄除観世音菩薩」として知られたという。近世には「法性寺観音」と呼ばれた。
 「三面千手」とも呼ばれ、3面の本面(正面、左右の憤怒面、菩薩面)、その上に24面の頭上面(化仏)を3段に頂き、全体で27面を供える。表情は丸みを帯びふくよかであり、長い眉、細い目、締まった鼻と口元をしている。合掌する手は、指先を反らし気味に表現されている。手は全体で42臂あり、それぞれ持物を持つ。脚にまとわりつく衣文は繊細な表現になっている。これらにはインドの影響があるともいう。天台系であるものの、和様への過渡の作風とされる。
 衣文は翻波式。木造、桜材、一木造、古色。
 ◈本堂に現代の仏師・松久宗琳(1926-1992)による「不動明王坐像」、「薬師如来坐像模刻」が安置されている。
 ◈かつて法性寺五大堂に安置されていた五大明王のうち「中尊不動明王坐像」(重文) は、現在、東福寺塔頭の同聚院五大堂(不動堂)に安置されている。「じゅうまん不動明王坐像」と呼ばれ、平安時代の仏師・定朝(?-1057)の父、康尚(?-?)作といわれている。像高265㎝、忿怒相。ほかの四明王(東の降三世明王、南の軍荼利明王、西の大威徳明王、北の金剛夜叉明王)は消失した。
 ◈また、浄光明院の「丈六阿弥陀如来」は京都国立博物館蔵になる。
◆建築 現在の法隆寺・大講堂は、平安時代中期、980年建立の法性寺の普門院本堂を移したものという。
◆子院 東北院は小野宮流一門の氏寺として法性寺の子院という。ほかに藤原宗子建立の最勝金剛院、藤原兼実の建立による最勝金剛院別院の報恩院、兼実が母のために建立した光明院、一音院、宝塔院、妙覚院などがあった。
◆源氏物語 紫式部『源氏物語』、第50帖「東屋(あずまや)」巻に、三条の隠れ家を訪ねた薫と浮舟のくだりで法性寺も触れられている。浮舟は、左近少将と破談になり、中の君のもとに預けられた。匂宮は浮舟に言い寄る。薫は浮舟を宇治に連れ去り、法性寺付近で夜が明ける。


*普段は非公開。境内での建物内外の撮影は禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『拝観の手引』、『京都古社寺辞典』、『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、『仏像』、『京都市の地名』、『平安の都』、『続・京都史跡事典』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『週刊 日本の仏像 第17号 六波羅蜜寺 空也上人像と東山』 、ウェブサイト「コトバンク」


東福寺  同聚院〔東福寺〕  最勝金剛院     浄妙寺跡(宇治市)    50音索引,Japanese alphabetical order 
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