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称讃寺 (京都市西京区) Shosan-ji Temple |
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称讃寺 | 称讃寺 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 地蔵 |
牛ヶ瀬の称讃寺(しょうさんじ)は、東海道線南に隣接し、境内に保育園を併設している。山号を青柳山(せいりゅうざん)という。 浄土宗西山禅林寺派(総本山永観堂禅林寺)、本尊は阿弥陀如来、札所本尊は千手観音。 京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)第20番札所。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 奈良時代、792年、延鎮は清水に光り輝く観音像を、倒れてきた柳の木に刻み牛ヶ瀬の柳山観音寺を開山したという。柳は行叡の言により延鎮が刻んだ清水寺の観音像と同木だったという。観音寺の開山は行叡の遺志によるものともいう。 794年以前、平安遷都前に現在の本堂東に湧水があり、柳の清水と呼ばれた。延鎮が第50代・桓武天皇に奉ると忽ちその病が治ったという。 平安時代、829年、称讃寺(もと小山寺)は忍戒の開基によるものという。 832年、観音寺の諸堂が建立された。坊舎・奥の坊の阿弥陀像は住職・忍戒僧都の作によるものという。 室町時代、1427年、応永の兵火の際に、住職・弘道は観音像を南の田中の草堂に遷し安置する。以後、堂田(どうでん)と呼ばれる。 1471年、弘道は旧地に観音寺の小堂を再建する。 1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)で、阿弥陀像が土中に埋もれたという。閑誉により称讃寺が再建され、阿弥陀像が安置されたという。 江戸時代、1842年、観音寺の本堂が再建された。 近代、1879年、真言系の観音寺は称讃寺と合併される。 1909年、本堂、庫裏が焼失する。このため観音寺本堂が使われる。 現代、1978年、山号紫雲山より改め、青柳山とする。廃れていた洛西三十三所観音霊場めぐりが再興される。 2001年、本堂が再建される。その際に観音寺の旧本堂の欅の奉納額(江戸時代、1827年)が見つかる。 ◆延鎮 奈良時代-平安時代前期の法相宗の僧・延鎮(えんちん、?-821?)。賢心(けんしん)。大和・高野山真言宗の子島(嶋)寺の報恩に師事し、その没後、子島寺を継いだ。778年、行叡(ぎょうえい)と出遭い、京都・乙輪(音羽)山に移り庵を結ぶ。798年、坂上田村麻呂が同地に開いた清水寺の開祖になる。優婆塞(うばそく、仏教の在家信者の男子)様の修行者とされる。 ◆仏像 本堂に阿弥陀如来像、十一面千手千眼観世音菩薩が安置されている。現在の観音像は室町時代作という。かつて観音寺に安置されていた。 ◆柳の清水 牛ヶ瀬はかつて柳の庄といわれた。平安時代、794年以前、平安遷都前に現在の本堂東に湧水があり、柳の清水と呼ばれた。延鎮が第50代・桓武天皇に奉ると忽ちその病が治ったという。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献 『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『洛西三十三所観音霊場』「西京ウォーキングマップ川岡東委員」の説明版 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() 地蔵尊 |
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![]() 愛宕燈篭 |
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