渡辺館跡 (宮内少輔城跡) (京都市左京区)
The ruins of the residence of Watanabe-yakata
渡辺館跡  渡辺館跡
50音索引  Home 50音索引  Home





長屋門


「宮内少輔城址」の石標が立つ。
 曼殊院道に面した丘陵地に渡辺館跡(わたなべ やかた)がある。 
 築かれた平城は、かつて宮内少輔城、一乗寺渡辺城とも呼ばれた。現在、長屋門脇に「宮内少輔城址」の石標が立つ。
◆歴史年表 室町時代、近郊の一乗寺に勢力を有した土豪(郷士)・渡辺氏は、北渡辺(一乗寺渡辺氏)と称され、この地に居館を築いた。(家伝)
 1573年、15代将軍・足利義昭と織田信長の対立の際に、田中の渡辺氏、磯貝新右衛門らは義昭側に付き、一乗寺(渡辺館)に籠城した。信長の軍は館を攻め、渡辺氏らは降参、退散する。(「信長公記」)。
 江戸時代以降、一乗村に渡辺氏の子孫が渡辺城跡に住み続け、庄屋を務めた。
◆宮内少輔渡辺昌 室町時代-安土・桃山時代の土豪・渡辺昌(生没年未詳)。詳細不明。松永久秀配下の出雲守長男・左馬助の弟。宮内少輔(従五位下相当)。
 室町幕府15代将軍・足利義昭に仕え、織田信長と義昭との対立に際して信長に反したという。のち豊臣秀吉の馬廻になるという。
 渡辺氏は戦国時代、一乗寺、田中一帯に勢力をもった。田中の渡辺に対し、北渡辺と称されたという。
◆義昭と信長 室町幕府15代将軍・足利義昭と信長の当初の利害は一致した。義昭が将軍に就くと、信長が義昭の権限を抑制したことから義昭は反発し、信長包囲網を広げる。1572年、信長は義昭に対して意見書を送付し批判した。1573年、信長は講和の働きかけをするが義昭は拒否、近江国で挙兵した。信長は柴田勝家、明智光秀らに攻めさせ陥落させた。信長は京都の郊外に放火、さらに上京に放火し和睦を迫った。さらに、二条御所を包囲した。関白・二条晴良の斡旋で義昭は一度は和睦を飲む。だが、義昭が再度挙兵したため、信長は義昭を追放し室町幕府は滅亡した。
建築 館跡地は、丘陵地を利用し三角形の郭(曲輪)の囲い内にあった。南から東の一部にはいまも土塁(丘陵)が残され、小川が流れている。かつて、周囲に堀があったという。そのため、周辺の堀ノ内の地名由来になった。
 堀内に石垣が築かれ、平城が建てられていた。現在も西面の一部、長屋門下、西側の民家東に低い石垣が残っている。
 屋敷の西に緩い坂道の通路が長屋門まで通じている。堀に架かる土橋があるという。
◆文化財 多くの史資料を保存する。
◆庭園 屋敷内に近世初期作庭の庭がある。


*非公開。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京都市の地名』『京都市姓氏歴史人物大辞典』


  関連・周辺       周辺       関連旧二条城(二条御所、古二条城)       関連西福寺       関連梨木神社           

石垣、地面部分にはかつて堀があった。

敷地東の丘陵地(土塁)

【参照】堀ノ内町の地名

【参照】背後の比叡山

【参照】周辺に立つ愛宕灯籠
 渡辺館跡 (宮内少輔城跡) 京都市左京区一乗寺西浦畑町/堀ノ内町  
  Home     Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光