仏陀寺 (京都市上京区)
Butsuda-ji Temple
仏陀寺 仏陀寺
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home







本堂


本堂









玄関



庫裏



鐘楼


山門左脇にある王城地祭地蔵尊


王城地祭地蔵尊扁額


王城地祭地蔵尊
 上京の寺町通東側に建つ仏陀寺(佛陀寺、ぶつだじ)の院号は大蔵院という。平安時代の朱雀、村上の兄弟天皇ゆかりの勅願所だった。 
 西山浄土宗、本尊は阿弥陀如来坐像を安置する。
 京洛(洛陽)四十八願所地蔵尊(京都四十八願寺)の第21番札所、札所本尊は王城地祭(おうじょうちさい)地蔵尊は安産祈願の信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、946年、第61代・朱雀天皇は譲位後、父の第60代・後醍醐天皇の菩提を弔うために、日蔵道賢(にちぞう どうけん)を戒師として落師した。仏陀寿と号し、仙洞朱雀院(朱雀大路)で仏事を修していた。(『佛陀寺興廃略記』)
 952年、朱雀上皇が亡くなる。
 967年、第62代・村上天皇が兄・朱雀上皇没後に、仙洞御所朱雀院を寺に改め仏陀寺とした。寺号は、上皇の法諱(ほうい)の仏陀寿(ぶつだじゅ)に因むという。上皇の遺志を継ぎ、別院・大蔵院を建立した。このため二天皇を開基とする。
 室町時代、寺地は二条京極、また万里小路春日(柳馬場丸太町付近)にあったともいう。(『応仁記』『山城名勝志』)
 1467年、畠山政長の邸があり、御霊の森の合戦に先立ち、政長の執事・神保長誠が寺に籠る。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失する。
 1478年/1467年/1476年、邦諫暁堂により、第103代・後土御門天皇の帰依を受け、土御門西洞院(上京区)に中興されたという。(『宣胤卿記』、1518年条)。浄土宗西山西谷流になり勅願所になる。
 1507年、細川澄元被官・三好之長が居住したため寺院は放火される。
 1508年-1518年頃、融国正孝が発願し一条に再興する。(「後柏原天皇綸旨」・仏陀寺文書、『宣胤卿記』)
 安土・桃山時代、1591年、天正年間(1573-1592)とも、豊臣秀吉の御土居築造に伴い現在地に移される。(『山州名跡志』)
 江戸時代、1661年、焼失する。(『坊目誌』)
 寛文年間(1661-1673)、僧・宝山が洛外、六地蔵以外の四十八か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の第21番霊場になる。
 1788年、天明の大火により焼失する。(『坊目誌』) 
◆朱雀天皇 平安時代中期の第61代・朱雀天皇(すざく-てんのう、923-952)。寛明 (ひろあきら/ゆたあきら) 、法諱は仏陀寿。京都の生まれ。第60代・醍醐(だいご)天皇の第11皇子。母は太政大臣・藤原基経の娘・藤原穏子(おんし)。3歳まで、菅原道真の怨霊の祟りを避けて、御殿の格子を上げず、昼夜灯を灯した御帳台の中で育てられたという。925年、3歳で皇太子、930年、父の譲位により8歳で即位した。母の兄・藤原忠平が摂政(後に関白)になり実権を掌握した。在位中に、自然災害が頻発し、海賊も多く出没した。承平・天慶年間(931-947)、平将門、藤原純友が乱を起こし、武士台頭の契機になる。(承平・天慶の乱)。946年、母の言に従い、弟の成明親王(第62代・村上天皇)に譲位した。将門の乱を恐れたためという。嵯峨、醍醐、大堰川などへ行幸し、芥川野(あくたがわの)、栗隈野(くりくまの)などへ遊猟した。晩年は出家し、仁和寺に入り、仏陀寿と称した。952年、その5カ月後に没した。歌集に『朱雀院御集』がある。諡号は、譲位後に母と移った後院の朱雀院に因み朱雀院という。京都で没した。30歳。
 在位中に、久しく途絶えていた摂政関白が復活し、藤原氏が就いている。陵墓は醍醐陵(伏見区)にある。
日蔵道賢 平安時代中期の伝説的な修験者・日蔵道賢(にちぞう-どうけん、905?-967/985?)。詳細不明。道賢、通称は飛天大師。三善清行の子/弟。大和金峰山(きんぷせん)・椿山寺で修行し、東寺で密教を学ぶ。941年、金峰山笙窟で無言断食の修行中に急死した。蘇生したともいう。81歳?。
 執金剛神の化身という僧に冥府六道に導かれた。太政威徳天神と化した菅原道真、地獄で苦しむ第60代・醍醐天皇を見て天皇への伝言を受け蘇生したという。
◆村上天皇 平安時代中期の第62代・村上天皇(むらかみ-てんのう、926-967)。名は成明(なりあきら)、天暦帝、法名は覚貞。京都の生まれ。第60代・醍醐天皇の第14皇子。母は太政大臣・藤原基経の娘・藤原穏子(おんし)。926年、親王、940年、元服した。944年、19歳で皇太子になり、946年、兄の第61代・朱雀天皇の譲位により即位した。基経の子・忠平を関白にする。949年、忠平の死後、関白を置かず親政を行う。(天暦の治)。実際にはその子・藤原実頼(左大臣)、師輔(右大臣)兄弟が支えた。954 年、諸臣に勅して奢侈を禁じ、売官( 財貨を募り、位階・官職の授与をする)を停止させた。960年、平安遷都以来初の内裏が焼亡した。
 律令制崩壊は進行し、財政悪化、地方政治の乱れ、悪疫の流行、水旱の災害があった。皇朝十二銭の最後になる乾元(けんげん)大宝の鋳造が行われる。鴻臚館の存置、菅原文時の意見封事(意見書)を用いた。貧民救済の常平所を設置した。後世、醍醐天皇の「延喜の治」とともに村上天皇の「天暦の治」として称えられた。詩歌、書、琵琶、笛に優れた。和歌所が設置され、960年、内裏で大規模な「天徳歌合」が催される。『後撰和歌集』の編纂が行われる。日記『村上天皇御記(『天暦御記』) がある。京都で没した。42歳。
 陵墓は村上陵(右京区)にある。
◆三好之長 室町時代中期-後期の国人・三好之長(みよし-ゆきなが、1458-1520)。名は長輝(ながてる)、号は希雲。阿波(徳島県)半国守護代・三好式部少輔の子。本拠は芝生城守護・細川成之の被官。筑前守。応仁・文明の乱(1467-1477)に加わり、1485年、徳政一揆の首魁という。1503年、成之の孫・澄元が執政・細川政元の猶子になりその被官として、1506年、入洛、摂津半国守護代になる。細川氏の相続争いで澄元を擁立した。1507年、8月の政変で澄之、元長が敗死し、澄元が惣領になり、家宰として権力を振るう。山城守護代・香西元長は政元を暗殺し、澄之を擁して攻めたため、之長は近江甲賀に逃れた。1508年、細川高国を擁した畿内国人らにより澄元が近江に追放され、之長は没落する。1511年、船岡山の戦いに敗北する。1520年、等持寺の戦に敗れ、百万遍で刑死になる。63歳。
◆邦諫暁堂 室町時代後期の僧・邦諫暁堂(ほうかん-ぎょうどう、?-1504年までに没)。詳細不明。播磨三井野の浄土僧、西山西谷流・召運の嗣法になる。仏陀寺住持になる。第103代・後土御門天皇の帰依を受ける。1477年、宮中で阿弥陀経を講じた。以後も、往生礼賛などを講じた。
◆本尊・地蔵菩薩 ◈本堂に本尊の「阿弥陀如来坐像」(84.7㎝)(重文)が安置されている。平安時代後期作、上品中生の説法印を結ぶ。この時代としてこの印は珍しいという。衣文は写実的になる。定朝様。木造、寄木造、金箔押漆箔。
 
◈「王城地祭(おうじょうちさい)地蔵尊」は、山門左脇の地蔵堂に安置されている。蓮華座に結跏趺坐し、右手は膝上に置き掌を見せ、左手に宝珠を載せる。王城守護とともに、像の胸元に下衣の結び目が下がり、腹帯に見えることから安産守護の信仰もある。


*非公開、事前要予約。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、『京都の寺社505を歩く 上』、『新版 京のお地蔵さん』、『京都のご利益手帖』 、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺  周辺十念寺    周辺本満寺   周辺阿弥陀寺  関連    
map 仏陀寺 〒602-0802 京都市上京区鶴山町10,寺町通今出川上ル3丁目   075-231-5686
50音索引,Japanese alphabetical order  Home   50音索引,Japanese alphabetical order  Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光