良恩寺 (京都市東山区)
Ryoon-ji Temple
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「華頂山良恩寺 導引地蔵尊」の石標


 粟田口、三条通の南、緩やかな坂の途中に良恩寺(りょうおんじ)はある。かつて、火葬場に向かう葬列が立ち寄ったという導引(みちびき)地蔵が安置されている。山号は華頂山という。
 浄土宗西山禅林寺派、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 鎌倉時代、第92代・伏見天皇皇子・尊円親王(1207-1231)が、この地に鎮守社・粟津稲荷を勧請する。
 室町時代、1564年、良恩寺は僧・浄清の建立による。青蓮院の承仕(じょうじ、雑務にあたる僧)・渡辺氏が僧・西谷に帰依し、自邸を寄進し境内地とした。当初は天台宗青蓮院に属した。(寺伝)
 その後、粟田口の惣堂となる。上之堂(かみのどう)、念仏堂ともいわれた。
 江戸時代、1665年以降、境内背後の花頂山にあった火葬場が当寺に伏され、寺が管理する。葬者には地蔵尊の前で引導を渡していたという。
 享保年間(1716-1736)以降、火葬場は廃された。
 近代、1868年以後、神仏分離令後の廃仏毀釈により、境内の鎮守社、粟津稲荷、市頭稲荷が粟田神社に遷された。
◆浄清 室町時代の僧・浄清(生没年不明)。詳細不明。僧・西谷の弟子。1564年、良恩寺を建立する。
◆粟田口善法 室町時代後期の侘び茶人・粟田口善法(あわたぐち ぜんぽう、生没年不詳)。粟田口に草庵を結ぶ。茶人・村田珠光門下。手取釜ひとつで食事も茶の湯もこなしたという。堺の豪商・茶人の山上宗二は「胸ノ奇麗ナル者」と称賛したという。
◆導引地蔵 現在、地蔵堂に安置されている導引(みちびき)地蔵(導地蔵)は、火葬場に向かう途中に祀られていたという。葬列は地蔵尊の前で引導を渡され焼き場に向かった。そのため、導引(みちびき)地蔵と呼ばれた。
 像は鎌倉時代作とみられ、像高1m、寄木造、左手を胸高に掲げ宝珠を持ち、蓮華座に立つ。常在光院遺仏といわれ、足利尊氏の守り本尊ともいう。伝承として最澄作、また、小野篁作ともいう。
◆常在光院 常在光院は、南北朝時代、建武年間(1334-1336)、現在の知恩院大方丈付近に建立された。足利尊氏(1305-1358)が夢窓国師を開山として開いた禅寺で、尊氏の京都居館になる。山号は華頂山、常在光寺とも呼ばれた。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失する。その後、江戸時代、1608年の知恩院の拡張に際して鹿苑院に合併された。旧地に残された庭園は、その後、知恩院大方丈に取り込まれたともいう。
◆花頂山火葬場 粟田口火葬場は当初、三条通北、東岩倉山下にあった。安土・桃山時代、1596年、武将・酒井忠次(1527-1596)夫人を火葬したことに始まる。江戸時代、1624年、金地院に東照宮建立に伴い花頂山山麓に移された。以後、近くの良恩寺が管理し、檀家、村人の火葬場となった。享保年間(1716-1736)以降、火葬場は廃された。
◆手取釜 寺宝として茄子形の「手取釜」と豊臣秀吉の朱印状が残されている。
 手取釜は、室町時代後期の侘び茶人・粟田口善法のゆかりの品という。善法は釜で湯を沸かし、往来の人々に一服の茶を奉仕していた。
 釜は名器と伝わり、豊臣秀吉が欲しがり、千利休を介して所望した。善法はそれを断り、代わりもないとして石に投げ打ち砕いた。その様を見ていた利休は呆れ、秀吉は怒らず感嘆した。利休(秀吉とも)は、伊勢阿倍野の津、越後という鋳物師に釜の写しを造らせた。二つの内の一つは善法に償いとして贈り、もう一つを秀吉への御物とした。寺に現存する釜は、善法没後に良恩寺に移されたものという。(「近世畸人伝」)。史実的な裏付けには乏しいとみられている。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』『京のお地蔵さん』『京都の寺社505を歩く 上』『京都・山城寺院神社大事典』『新版 京のお地蔵さん』『史跡探訪 京の七口』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』 


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map 良恩寺 〒605-0051 京都市東山区粟田口鍛冶町7  075-561-2890
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