許波多神社 (宇治市五ヶ庄)
Kohata-jinja Shrine
許波多神社 許波多神社 
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割拝殿




本殿拝所
 許波多神社(こはた じんじゃ)は、宇治川の隠元橋の東にある。かつては、柳(やなぎ)大明神と呼ばれていた。 
 祭神は、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと、即位前の神武天皇)、諡神武天皇。
 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中、「宇治郡 十座 大五座 小五座」の「許波多神社三座」の一つに比定されている。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 飛鳥時代、645年、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂(?-649、馬子の孫)の奏上により、神武天皇の神霊を祀るため、政治家・中臣(藤原)鎌足(614-669)に詔し、山背国兎道郡許畑柳山に神殿を造営したという。東宇治(伏見区桃山南口)の許波多、木幡(こはた)、許の国に祀られたため、許波多神社、また木幡神社と号したという。
 672年以前、壬申の乱に先立ち、大海人皇子(後の第40代・天武天皇)が、近江を発ち大和の吉野に向かう途中、当社に参詣した。鞭の柳の枝を社頭に挿し、戦勝祈願をしたところ、柳が芽吹いて繁茂したため、その地を柳山と名付け、また、柳大明神と呼んだという。
 また、当初は五ヶ庄東部の柳山(大和田柳山、五ヶ庄三番割東山柳山、現宇治市黄葉運動公園付近)に祀られていたため、柳明神と通称され、正式の社号となったともいう。
 『山城国風土記』(713)逸文中に、「宇治郡、木幡社 祇社、名天忍穂長根命」と記されている。
 平安時代、9世紀-10世紀(801-1000)、木幡東部丘陵地の社(宇治郡五条七里上提田外里、十七坪、十八坪、現在地の東南700-800mの字南山 南西部付近)より木幡の地に移されたともいう。(『東大寺東南院文書』中「山城国字治郡司解」)
 859年、従五位の神階を授けられる。(『三代実録』)
 927年、『延喜式神名帳』に式内大社として記されている。
 応保年間(1161-1163)、分祀したともいう。他方も許波多神社(宇治市木幡)と称し現在も祀られている。
 中世(平安時代末期‐安土・桃山時代)、神宮寺が存在した。
 室町時代、1596年、正一位に叙せられる。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、公家、武家の崇敬を集め、黄金、白銀下賜、堂上家の寄進がある。
 江戸時代、公卿・近衛信尋(1599-1649)は、五ヶ庄村付近一帯に牛疫(牛のウィルス感染症)が流行した際に、「憐れみをたるる柳の神ならば死ぬるをうしと思やはせぬ」という和歌懐紙を柳大明神に奉納したところ、伝染病が終息したという。
 1661年、柳山の境内に隣接して黄檗宗萬福寺が建立される。社地の一部が侵されたため、以後、境争論が生じた。
 1678年、社殿営繕の際に宮中より金品を贈られる。
 1729年、再び一帯で牛疫が流行し、近衛信尋の例に倣い、公卿・近衛家久(1687 - 1737)が「あはれみをたるる柳の神とてもしぬるをうしとただ思ふべし」という懐紙を奉納した。
 1783年、境争論に関して、京都町奉行が萬福寺を支持する裁許状を下したことから、例祭の神輿渡御に際して紛争が生じ、6人が入牢した。
 近代、1876年、陸軍省火藥庫増設に伴い、御旅所のあった岡屋村の現在地に遷された。その際に、柳神社(柳明神)より許波多神社の旧称に戻されている。
◆天武天皇 飛鳥時代の第40代・天武天皇(?-686)。舒明(じょめい)天皇皇子。母は宝皇女(皇極・斉明天皇)。天智天皇の同母弟。大海人皇子と呼ばれた。672年、天智天皇の子・大友皇子(弘文天皇)との皇位をめぐる 壬申の乱に勝利し、673年飛鳥の浄御原宮で即位した。皇親政治、天皇中心の政治をとり、飛鳥浄御原令(りょう)、八色(やくさ)の姓(かばね)などを制定した。『日本書紀』、『古事記』の編纂を手掛けた。神道を整備、国家仏教を推進する。天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇ともいう。皇后はう野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)。 *「う」は「盧+鳥」
◆柳大明神の伝承  飛鳥時代、671年1月、天智天皇は、大友皇子を太政大臣に任命する。大海人皇子は朝廷から疎外される。10月、天智天皇の病が重篤となり、天皇は大海人皇子を病床に呼び寄せ後事を託す。だが、大海人皇子は、使者・蘇我安麻呂の忠告を受け、倭姫皇后(天智天皇皇后)が即位し大友皇子が執政するよう薦めた。その日すぐに自らは出家し、妻(後の第41代・持統天皇)、子らとともに吉野宮に下った。天智天皇は、大友皇子に皇位継承を望んでいたともいわれている。
 大海人皇子は、大津の宮より吉野に向かう途中、当社社前で馬が先に進まなくなる。皇子は鞭の柳枝を瑞垣の傍の土中に挿し込み、神明の冥助を祈願したところ、馬が急に進んで無事に吉野に到着することができたという。
 大海人皇子は、672年の大友皇子との皇位継承争いである壬申の乱に勝つ。翌673年1月に飛鳥浄見原宮で、第40代・天武天皇に即位した。その後、当社の柳枝も大きく繁茂したことから、神明の御加護と叡感あるとして、この神柳に正一位官幣を寄進したという。以後、社号は柳大明神と称し、近代以前まで続いた。
◆建築 本殿(重文)は、柳山より移築されている。室町時代、1562年建立、内陣厨子(扉)に「永禄五年」の銘があるという。
 正面蟇股に、柳、馬の象形彫刻、棟の両端にも柳の文様が彫られている。
◆木像 木像「男女神像」(府指定有形文化財)2体がある。
 本殿に祀られている「牛頭天王神像」(府指定文化財)は、頭上に牛頭、念怒の表情で正面、左右面の三面を持つ。藤原時代(平安時代中期-後期、鎌倉時代とも)作、一本彫りの彩色立像、唐様装束、像高約1m、類例は少ないという。なお、祇園感神院(八坂神社)本尊・牛頭天王神像は、近代の廃仏棄釈により失われた。神像で現存するのは当社と朱智神社(京田辺市)のみとされる。
 ほかに、「馬頭男神像」などがある。
◆木像許波多・木幡山 木幡(こはた)と許波多(こはた)の地名由来については諸説ある。
 木幡は、古く山科郷に属していた。木幡とは、「鍬で開いた田」、「コハ田という田」、「新たに鍬をおろして開いた田(鍬田、くわた)」の意味であり、後に「強田(こはた)」、「木幡(こわた)」に転訛したともいう。
 許波多とは、一帯がかつて「許(こ)の国」と呼ばれ、木幡付近の端(はた、幡)にあったためともいう。
 歌枕の木幡山(こはたやま)は、宇治の木幡、伏見桃山御陵付近の山もいう。後には、桃山(伏見山)を指した。「こはた山こはたが為にね覚めよとゆふつけ鳥の暁のこゑ」(『隣女集』、七九五)。
◆年間行事 例祭(10月26日)、神幸祭(11月3日)。
 

*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都府の地名』『京都古社寺辞典』『京都の地名検証』『京都の地名検証 2』


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本殿

手水舎の床は、旧鎮座地にあった宮川の橋桁を再利用しているという。
 許波多神社 〒611-0011 宇治市五ヶ庄古川13 
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